「縄がいいな」 書類と格闘している俺の向かいで指先をしげしげ眺めていたトシが、また変なことを言い出した。 無視してしまうのが一番いいとはわかっているのだけれど、そうもいかない性分なので、視線はディスプレイに落としたまま、できるだけ気のなさそうなトーンで言った。 「なんだ、縄って」 なんとなくその単語が不穏だったせいもある。こいつの変な妄想は暴走しちまう前にブレーキをかけておかないと。 「あるだろ、赤い糸って」 「へ、ああ」 なんだ、そんな少女趣味な話か。少し拍子抜けしたら変な声が出たので咳払いをした。 「糸じゃすぐ切れちまうじゃねえか」 「それで縄か」 笑いながら集中を画面に戻す。ワークフローシステムのトレイには局長決裁がいる案件がいくつか、こういうのは一応既存の案件とつき合わせて置かなきゃならない。 全く少しぐらい手伝ってくれたっていいのに、自分の分は終わったとかなんとかいってこうして邪魔ばっかりしに来る。そういや俺こいつが書類仕事してるところ見たことないんだけど。山崎とかにやらせてんじゃねえだろうな。 全く、俺たちなんかみんな脳味噌まで筋肉なんだから、こんなのほんとに性に合わない。あー、次のもまた面倒なやつだ。これ以前通したら後で監査のとき厄介なことになったんじゃなかったっけ。新しい案件の概要をなぞって、頭をがしがし掻きながら掌をトシのほうに向けた。 「それ取って、トシ」 「どれ」 「これ?」 「それじゃねえ、その下」 指差せばトシの膝の先、無造作につんであったファイルを引っ張って遣した。真ん中を抜いたせいで小さな雪崩を起こしたけれど直す素振りもみせない。 しょっぱい顔でありがと、と礼を言った。 「ずりいよな」 「なにが」 灰皿にちびたタバコを押し付けて、トシはこちらを上目で伺ったまま俺のほうへと上体を傾け、机につっぷした。 「あんたからはたくさん糸が出ていろんなところに繋がってて、おれのなんかその中の一本なんだ」 「お前だっていろんなとこに繋がってるさ」 ファイルを繰りながら苦笑いをする。隊士連中だって総悟だってなんだかんだでお前を慕ってる。俺だけにしか繋がっていないなんてそんなわけがない。 「いらねえよそんなもの」 低い、けれど強い声を出されて俺は視線を上げる。 トシは大きくかぶりを振った。 「あんたのしかいらない。おれから出る糸は全部糾ってあんたに結びたい」 俺はこんなとき上手く笑えない。 自分を卑下しているわけでもなんでもないけれど、それでもこんなことを言うトシを哀れに思う。 俺はこいつの嫁にもなれないし子供だって産めないし、家族にもなれない。こいつの生のありうる限りの幸福の、俺がひとりで叶えてやれることのいかに限られたことか。 俺以外をみんな蔑ろにするなんて、そんなに勿体無いことはない。そこかしこにいくらでも、こいつの人生を豊かにするような出会いが転がっているはずなのに。 俺に囚われることでこいつが今までどれだけの、そしてこれからどれだけの糸を引きちぎるのだろうと、思えば喉元が詰まったように苦しい。 かける言葉はいつまでたっても見つかりそうになくて、代わりに俺はノート越しに手を伸ばし、トシの頭に掌を載せた。載せればトシはどこかうっとりと目を眇めた。 こんなことで俺は何をごまかそうというのだろう。たまった唾を嚥下したのと同じタイミングでトシの口が開いた。 「おれの望みなんかいつだってひとつだ」 俺は特別信心深くもないし、そもそも神様なんてものがいたとして一人のちっぽけな願いになんか取り合わないと思うけれど、それでも神様、 ひとつだけ俺の願いが叶うならばどうか、こいつの願うとおりにしてやってください。 090921 |