逃げろどこまでも逃げろ


「困るんだよねうちも。こんなことされちゃ商売にならないでしょ」
黒服にネチネチ嫌味を言われ続けて早三十分。入れ込んだキャバ嬢を裏口で待ち伏せてしつこくしたとかで、呼び出しを食らってすっとんできたらこのザマだ。

「でもめろんちゃんが、今日はずっと一緒にいたいなって」
口を尖らせてもごもご言い返すのが傍で聞くに堪えない。
「もういいオトナなんだから、リップサービス真に受けてどうするの」
黒服の脇のめろんちゃんとやらは確かにほわんとした見掛けをしているがこの状況下でしれっとして毛先をいじっている辺りあまりタチがよさそうじゃない。
「取締り取締りってうるさいけど、まず自分とこの大将どうにかする方が先なんじゃないの」
耳が痛いとはこのことだ。言葉も少なく頭を下げるおれの横で、近藤さんはぶすりと頬を膨らませている。かわいくねえんだよ。
「ほら、いいから謝れ!」
強引に頭を押さえつければ剛毛が指に痛い。まったくどこのおかんだ、おれは。
もう近づかせないと約束して、強引に腕を掴んでその場を後にした。恥ずかしいったらない。


繁華街を離れて落ち着いた街灯だけの通りに来ると、不機嫌そうに近藤さんはおれの手を払った。
「ひとりで歩けるもん」
なにが『もん』なんだか。おれは低く唸った。
「ほんといい加減にしてくれよ、迎えに来るこっちの身にもなれ」
「俺悪くないもん、恋に生きてるだけだもん」
悪びれもせずぶつくさと呟く、呆れてモノも云えねぇ。

「あ、こら」
目を放した隙に近藤さんは角の児童公園にさっさと入っていった。
うんざりしながらも追いかけてゆるいスロープを登る。こじんまりした公園には低い鉄棒とブランコのほかにはベンチしかない。
近藤さんは早速ブランコに腰掛けて、子供っぽい仕草でぶらぶら足を揺らしている。仕方がない、酔いが冷めるまで付き合うか。おれはため息をひとつついて敷地内の自販機に向かった。袂にあった硬貨を入れ、冷たい茶のボタンを押す。
屈んでペットボトルを取り、放り投げれば近藤さんはろくにこちらも見ずに顔の辺りで受け取った。ふくれたフグみたいな表情、小学生みたいだ。
「全く情けねえ、これでも局長かね」
せりふは思いの外、しんとした敷地に響いた。おれは近藤さんの座るブランコの向かいの鉄棒まで来て寄りかかる。

近藤さんはキャップを開けて一口すすると、
「そう思うならやめればいいじゃん」
ぼそりと漏らした。頬にぴりぴりとしたものが走って腹がじくりと疼いた。聞き逃せなくて尋ねる。
「なにを」
「組をさ。こんな上司の下にひっついてないで」
なにを、云ってるんだこのひとは。
行き過ぎた憤慨で苦しく、気持ちが悪くなってきた。おれが、どんな気持ちでずっと、あんたの傍にいると。腹の底から燃えるような怒りが喉でとぐろを巻く。
「ふざけ、」
「だって」
切羽詰ったような声に遮られて言葉を呑む。続いて近藤さんの口から漏れたのは半分涙声だった。
「そんなのトシがかわいそうだ」

真意も測れず表情を硬くしたおれをどう思ったのか、近藤さんは早口で言い募った。
「報われない、一方通行、一人相撲、惨めで哀れ、みんなお前が俺に言ったんだよ、これ」
でも。そこまできて云いづらそうに喉を鳴らす。まさか。ずくずくと跳ねる心臓が次ぐせりふで、
「お前もそうじゃないの」
口から飛び出してしまうかと思った。殺人的に鈍いこのひとが気づくわけないと、あれだけ無遠慮にちりばめた自嘲を、残らず目の前に広げられて愕然とする。
切り返しも見つからず、ごまかしも効きそうにない。足元にわだかまる自分の影を睨んで、噛んだ唇は血の味がした。


押し黙ったおれを慰めるように語り口は丸みを帯びる。
「そりゃ嬉しいよ。俺はさ、どんなんなってもトシがいてくれて。でもお前はどうなの。報われてるの。幸せなのそれで」

おれの気持ちに気づいてて。わかっててこのひとはこんなに酷いことを言うのか。
報われなくても。かき集める幸せが塵みたいでも。それでもいいと、おれはかわいそうなんかじゃないと思っている、少なくとも思っていた、ついさっきまでは。でもこうして張本人に突きつけられたら、ほんとはそうじゃなかったのかもしれないと自信がなくなる。頭は塗りつぶされたみたいに真っ白だ。

目頭が攣ってしまいそうだ。ああでもおれはこんなところで小娘みたいに泣くわけにいかない。

つっかえつっかえ続く、近藤さんの声は優しい。

俺みっともないだろ、アホだろ。お前の前でいつもそんなことばっかりして、いつ愛想尽かされるのかと思ってる。尽かされたかないけど、でも、そのほうがお前は幸せなのかもしれない。俺はお前を楽にしてやりたい。
「なあお前、いつになったら俺のこと嫌いになる」

おれは近藤さんの唇が動くのを呆然と眺めた。
頭は割れそうに軋むのに、涙はどうやって出すのだか、いよいよおれにはわからなくなった。
そうこう考えている間に近藤さんが目元を擦り、しゃくりあげ始めた。
「かわいそうだ、トシがかわいそう」
聞いているこっちが哀れになるような嗚咽がおれの胸まで詰まらせる。性質が悪いことにこのひとは本気で泣いているのだ。
手は意識の外で伸びていた。そっと触れた指先で毛先を辿り、ゆるゆると子供のように頭を撫でる。ごわごわとした感触と地肌の体温が、わけもわからずおれの呼気を塞いでいく。



おれが可哀想だと泣くこの男を、おれはどうしたら嫌いになれるんだろう?




090829