入水願い



振り仰いだ、赤々とした空は燃えるようだ。肌寒くなった風が、制服の下を吹き抜けていく。
「寒、」
口から出た言葉に後押しされるように、おれは自分の肩を抱いた。
手首の付け根の膨らみに思い至り、懐からソフトケースを取り出す。くわえた煙草にジッポで火をつける。風で火がなびいてしまうので、左手で覆ってもう一回。
「やめたんじゃなかったんですか」
話しかけられて初めて、隣に人がいたことに気づく。
「何を」
「煙草、」
言われて見ればもう長い間吸っていなかったような気がする、肺を満たす煙はじりと粘膜を燻る。毒素に侵食されていくのを心地よいと思う。
やめてねえ、と言えば、そうですか、と山崎は不思議そうな声を出した。
「それにしても、やっと片付きましたねえ、よかったですねぇ」
いきなりなんだ、と思いながら、反応をするのも面倒でおれはあいまいに頷いた。
「今日局長、その打ち合わせで長官のとこでしょう」
そうだったか、よく覚えていない。おれの気持ちならもう伝えた、近藤さんも、お前に祝ってほしいとは言わないと言った。泣いたし叫んだし喚いた、それでもするというのだから仕方がない。仕方ないだなんてこれっぽっちも思っていないけれどそれでも、朝は来るし腹は減るし時間は変わらず流れていくのだ。忌々しいほど。

「あ、うわさをすれば、ですよ」
山崎に肩を叩かれ振り向けば、パトカーがおれたちの横につけて止まった。
「ご苦労さん。見回りの帰りか」
パワーウインドウが下り、顔をのぞかせた近藤さんは、乗ってけよ、と後部座席をさした。


車内での二人の会話は聞くに堪えないものだった。
山崎のからかいにいちいち真正面から絡んであの女の惚気を喋る、招待客がどうのだのとっつぁんのスピーチがどうのだの。おれは面白くもない窓の外を眺めて目を細めていた、ポーカーフェイスというのか、いつも仏頂面をしていればこんなときにも変に勘づかれることがなくて楽だ。

屯所の前で車を止めると、近藤さんは山崎を振り向いてこんなことを言った。
「ちょっとトシとドライブしてくるから先に帰ってて」
「あ、はい、わかりました」
「独身もあとちっとだかんねえ。積もる話もあんのよ」
シートベルトを直しながら言う近藤さんに、でしょうねえ、と山崎はわかったような相槌を打った。促されておれが後部座席から助手席に移ると、間の抜けた顔の山崎に見送られて車は走り出した。




車内は無言だった。あるべくして横たわっている沈黙だった。このひととならそれがいくら続いたところで気まずくはない。目的地も聞かなかった。たぶんそんなものは存在しない。
広くない空間でふたりきり、肩を寄せているという事実が無条件におれをほだしていく。車内は芳香剤の匂いと、煙草が焦げ付いたような独特の匂いが充満している。その下から近藤さんの整髪料の匂いを嗅ぎ当て、小さく嘆息する。


標識を見ていなかったのでどこを、何時間走ったのかもわからない。否もしかするとそんなに時間は経っていなかったのかもしれないが、気づけば夜はとっぷりと更けていた。
車は高速を下りると湾岸のほうへ走り、大きな倉庫が間隔を空けて並ぶ埠頭のあたりに来た。
無駄に広い車道の端に寄せる。砂利の音がタイヤの下でひしめき、車はのろのろと止まった。
左手は輸送会社かなにかの敷地のようだった。柵もないのでここも敷地内かもしれない。コンテナの間からは遠く無人のクレーンが鎌首をもたげているのが見える。

近藤さんは緩慢なしぐさでギアから手を離すと、おれのほうは見ずに尋ねた。
「なあ、俺達は、もう戻れないか」
随分とくだらないことを聞くものだと思う。
「戻るって、いつに」
「そうだな、出会ったばかりの頃、まだ俺もお前もガキでバカやってたころ、」
は、とおれは嫌味に哂って見せた。
「あンたが勝手にそう思ってるだけだ」

おれたちの間に穏やかな時間なんかなかった。少なくともおれは、あんたを思っていつだって焦がれていた。そしてあんたはそれに気づいていた。気づいて利用していた。それでよかったんだ、おれは。あんたに利用されていいようにされて嬉しかった。おれがあんたのものだと思っていられて嬉しかった。嬉しいよ、今だって、

みなまで言わなかった。それでも近藤さんはそうだな、と首肯した。
「お前の言うとおりだ」

もう手持ちの言葉は全てぶつけた後だと思ったけれど、それでもおれはなにか一言言ってやりたくなった。唸るように喉を鳴らした。
「おれはあンたを誰にも譲ったりしないぜ」
「ああ」
近藤さんの相槌は穏やかだったので、おれは満足して口をつぐんだ。
運転席の向こう、道路と平行して高速道路の高架が走っている。オレンジのテールランプが窓ガラスに反射してひとつなぎになっていくのをぼんやりと眺める。

近藤さんはハンドルの上に腕を組み上体を預けると、道の先を見ながら口を開いた。
「今だから言うけど」
いやな前置きだと思った。
「お前に出会ってからずっと、繰り返し見る夢がある」
どんな、とあまり気のない声を出す。

「女の首を絞めている。気分のいい夢じゃない。それでもあんまり何度も見るものだから、女の身体の手触りまで覚えてしまった」
近藤さんの話はぽつりぽつりと続く。
たぶんあれは遊女だ。それで俺はなじみの客で、いつか落籍すると約束をしていた。それが自分の結婚が決まり、にっちもさっちもいかなくなって女を殺すんだ。 詳しく見たわけじゃないが、多分そういう事情だろう。夢の中で俺は、すまない、と思う。それでも仕方がない、とも。生かしておいたほうが可哀想だと、ひど く手前勝手なことを考えている。

そこまで聞いて、おれは黙っていられなくなった。
「ちりめんの飾り帯」
「ああそうだ、やっぱり」

お前も見るのか、と近藤さんは声に出さずに訊いた。
おれは頷いた。男に首を絞められる。おれは女で細い首はすぐにきしむ。納得などしていない。それでも苦しさより憤りより恨めしさより、その男の傍にもういられなくなることだけが哀しくて、おれは目を見開く。さいごに少しでも長く男の顔を焼き付けようと目を瞠っている。
そういう夢を繰り返し見る。

それが生まれてくる前の記憶だとすれば。近藤さんは喉で笑った。
「ひどい巡り合わせもあったもんだ」
くつくつと、さもおかしそうな声音だった。
「弄ばれた挙句に縊られたンなら、恨んでたってよさそうなものなのにな」
なぁ、とおれを目じりで見遣る。おれは首を降った。
苦しい。それでもこの男を恨むより何よりも愛している。恋しい。苦しい。恋しい。夢の中のおれはずっと、そう思っている。


今日ここへ近藤さんが俺を乗せてきたことを、ぼんやりと思う。
おれは。喉から出た声は掠れていた。おれが乞うのはいのちじゃない。

「あんたを愛してるよ」
もうその意味すらも覚束ないぐらいに、あんたのことだけを思っている。もうどれぐらい前からかわからないぐらいに。この、おれの身体に、おれの生に、収まりきらない想いが、ふたりをここまで追いやってきた。
だからその業を背負ってなおあんたが、またその記憶をなぞるというなら、おれに異があるわけもない。

近藤さんはハンドルから身体を起こした。
対向車線のライトで、黄色く照らされた横顔が、ゆっくりこちらへと振り向く。もう彼は笑っていなかった。
近藤さんの目は硬質の金属みたいに輝いている。


100913