夜に吠える



朝礼の時間に近づいてもトシの姿が見えなかったので、俺は忘れ物を取りに戻ったついでにトシの部屋の前で声をかけた。
「おい、そろそろだぞ」
気配はするが返事が無い。不思議に思ってもう一度、腹から声を出す。
「トシ、いるのか」

獣の唸るような声が聞こえたので戸を引けば、トシの部屋の真ん中に鎮座していたのは、身を伸ばせばその丈六尺にもなりそうな、大きな獣だった。

「トシか」
身のうちの確信が俺にそう口走らせていた。獣は返事の代わりにこちらへゆっくり近づいて、俺の足元に頭を摺り寄せた。
黒い豊かな毛並みが隊服越しにすべらかで、俺は屈んで背を撫でた。暖かい毛皮の下に隆々とした背骨の感触、高い獣の体温。どこも似つかない、けれどこれは間違いなくトシの化身だった。



連れ立って広間に顔を出したが誰にも動揺はなかった。
「ああ、副長。遅かったですね」
いつもトシの読む報告を俺が代わりにする程度で、朝礼は滞りなく進行した。俺の隣、座布団の上に首筋を伸ばして座る姿は威厳に満ち悠々としたものだった。

最初は何かの間違いかもしれないと思ったが、一晩経ってもトシは獣のままだった。一晩が三日になり、三日が一週間になり、一週間が一月になったけれど一向に元に戻る様子ははなく、俺もどうかすると元からこうだったような気分になってしまう。
そして俺以外の人間も不思議と、これがトシだということを当たり前のように受け入れていた。人語は喋らずとも戦場では目覚しい活躍を見せる。そして俺たち真選組の営みは本来そういうものであった。
獣の形をしていたところで用心棒も務まるし、式典などでおかざりのときは置物のようにじっとして動かない。何も不足は無いように思われた。


俺はふと、ずっと昔にどこかで読んだ故事を思い出していた。情人との間を裂かれてその一族を焼き殺し、その報いで虎になったという男の話だ。身に余る執念は姿をも変えてしまうものなのかもしれない。

そしてトシをこうしてしまったのは誰かということも、俺は十重に承知していた。


     *


自分で開けられないトシは、俺の部屋の戸をカリカリと爪でかく。
障子の向こうに大きな影が見えて、俺は布団を抜け出した。戸を引けばのそりと入ってくる体躯。
布団のところまで来ると丸まって、ウウ、と小さく唸る。それが何をねだっているのか俺は理解が出来る。傍らに座って喉を筋肉に沿ってなで上げてやれば、ぐるぐると喉が鳴った。
布団をめくると頭を俺の懐に押し付けるように入れてくるので、抱き込んでやった。鼻息を荒くしたトシに押し倒され、胸板に足を乗せられる。顔中を舐められて俺は苦笑した。
「くすぐってえよ、トシ、トシってば」

言葉の通じない、睦みあってもこいつの気持ちに俺は応えられない。
人間だったときと何も変わらない。
こうして元々、別の種の生き物だったほうが、こいつは期待しないで済んだのだろうか。


あの夜、トシに借りた金を女につぎこんでいることを詰られて、のらりくらりとかわしていた。そんなのはよくあることだったのだけれど、俺の態度が気に食わなかったのかトシはひどく激昂した。おれとその女どっちが大事なんだ、と言ったトシに、俺は、そんなこというトシは嫌いだぜ、と答えた。そんなことを詰め寄ったって何にもならないのに。と思って笑った。
そこであいつは全てを悟ったらしい。絶句して顔色を失った。

正座し、うつむいたままのトシを残して俺はひとり部屋に帰った。獣になっていたのは翌朝だ。

俺がお前だけと向き合う日なんかきっと永劫やって来ないのに、そこにいつまでもしがみつくお前を、滑稽だと、哀れだと、そして確かにいとおしいと思う。

あいつを、
ものも言えない獣にしたのは俺だ。


     *


「どこ行ってたんですか」
こんな日までキャバですか、あきれた顔をした山崎に出迎えられて、すまん、と笑ってごまかした。手渡されたタオルでびしょぬれになった下半身を拭う。ほとんど気休めだ。
勇んでいったがどこもこの大風で早々と暖簾を上げてしまった。最後の店を追い出されて仕方なしに帰路に着いたのだ。そのころには既に激しい雨脚になっていて、傘は飛ばされそうになるわ、立て看板は降ってくるわで酷い目にあった。
「天気予報見てないわけでもないでしょうに」
「大したことないと思ったんだよ、出たときは」
嫌味をいなしながら山崎の後を歩く。屯所のつくりは頑丈とはいえ、風でみしみしと厭な音を立てて軋んでいる。
「雨戸はあらかた打ち付けておきました。局長の部屋の棟も」
ありがと。と礼をひとつ言って、廊下で別れる。山崎はお休みなさい、と頭を下げた。


部屋の前まで来ると黒い大きな影があった。トシだ。
「どうした、台風が怖いか」
戸をあけて招き入れてやると、俺の後をついてきたトシは頭を寄せようとして、ふいと背けた。そしてぐるる、と白い牙を見せる。
「あれ、ばれちゃった?」
雨で匂いも飛んでいるかと思ったが、香水を嗅ぎ分けられてしまったようだ。

向けられた牙は鋭く白い。
今のこいつであれば易々と喉笛を噛み切れるだろう。俺の愛した女が次々に食い殺されるところをぼんやりと想像する。
俺とこいつの歩いた後に無辜の骸がいくら転がることになろうとも、この道行きに引き返す途はない。

逃げを打つ身体を引き寄せて、耳の後ろをくすぐるように撫でてやると、観念したのか鼻先を俺のほうへと向ける。長い髭がふいと頬をくすぐる。至近距離で覗き込むと、トシの目に涙が盛り上がった。黄色いガラス玉のような瞳から、ぼろぼろと毀れてくる。
獣が泣くのを俺ははじめて見た。
「よしよし」
ああ、苦しいのか。かわいそうに。でも、お前がこの業から開放されることは金輪際無い。それはお前が俺と出会ったときから決まっていることだ。

トシの涙は不思議な味がした。
舐めとってやっても次から次へとこぼれるそれを、俺は無心にすすった。


屋外では夜の風がごうごうと、哀しく鳴いている。
俺は喉を飛び出しそうになる、叫びにじっと堪えている。



100807