ゼロコンマ八秒
蕎麦屋の暖簾をくぐって、ありがとさん、という声を背中で聞く。通りに出れば出し汁のにおいの湯気がボイラーからふきだしていて、食後のゲップを誘う。 見やれば道の向こうから両手に荷物を抱える長身の女。あの不恰好なエコバッグは身間違えようもない。近寄ってきたそいつは俺の視線を捉えると眉をひそめた。 「こんなところで間食か、いい身分だな」 「うっせーよ、おれの勝手だろ」 鼻を鳴らせばヅラは、そうか、と軽く頷いた。 「帰ったらリーダーに報告する」 肩で風を切るヅラを小走りで追いかけ、腰も低く謝った。 「あっ嘘ウソ嘘ですすみません」 パチンコで負けた挙句蕎麦食べてきたなんて言ったら蕎麦吐くまで殴られるにきまってる。 ヅラははあ、とため息を吐いてこちらを一瞥してきた。 「ひとつ持ってやろうとかそういう気遣いはないのだな」 掲げられたエコバッグをヅラの手から奪うようにして受け取る。横に並んで歩き出すと、前を向いたままヅラは言った。 「ところで新八くんだが、」 「ん」 「もう一週間になるが」 おれはぶすっとして答えた。他人事みたいなカオしてんじゃねえ。 「お前が余計なことしたんだろ、しらねーけど。お前のせいだよ」 そうか、俺のせいか。そんなことをしれっと言って首をかしげるものだから、絶対こいつのせいだ、とおれは確信を深めた。 「青少年いじめて楽しい?」 口をとがらせながら聞けば、ヅラはすっと一歩前に出、振り仰いで横顔で、くっ、と笑う。 「いじめてはおらんぞ」 ちょっと作った声音はハスキーだけれどちゃんと女のそれに聞こえるのだから大したものだ。 「まあ、あれだ。俺もお前の幸せを願っているのだ」 「はあ?」 ふふ、と口元を隠して肩を震わせる、ああやだやだこの笑い方。突っ込んで聞くのが野暮に思えるからずるい。 万事屋の階段を上りきったところで変な声が出た。 「うお、」 入り口の前にしゃがんでいる新八を見つけたからだ。しゃがんでいるから下からじゃわからなかった。 「何やってんのよ、そんなとこで」 おれがそう尋ねるとやおら新八は立ち上がり、おれじゃなくヅラに歩み寄る。それから携えていた木刀のうちの一本をずいとヅラに差し出した。 「手合わせしてください、一本だけでいいから」 途端に、ぴんと空気が張り詰める。ヅラは顎に手を当て、ゆっくり首を縦に振った。 「ふむ」 「手加減はなしで、お願いします」 「新八、お前」 事態が上手く呑みこめず名前を呼んだが、おれの声を遮るように新八は首を振った。 「いいから」 いいから、銀さんは見ていてください。何がいいんだかさっぱりわからないけれど勢いに押されておれは頷いた。 新八に先導されて裏の空き地に来ると、ふたりとは距離を取っておれは土管の上に腰かけた。あたりは夕暮れで赤いセロファンをかけたみたいで、西のほうからだんだん視界が翳ってきている。空き地にはところどころ草が生えているが、近所の子供が踏み荒らしているせいか真ん中は土が見えていて、ちゃんばらをやるぐらいのスペースはじゅうぶんにある。 見護ってやる義理なんざないけれど、有無を言わせない強さが新八の声にはあった。どこかで聞いた声だと思った。肘のあたりから上がってくる鳥肌が不快でぼりぼりとひっかく。そうだ、捨て石になると言って二度と帰ってこなかった仲間の声に似ているんだ。それを思いだしたらさっと頭が冷えた。 木刀を上段に構える新八に対し、ヅラは肩の力をぬいて下段の構えでいる。 口火を切ったのは新八だった。やああ、と掛け声をあげながらヅラに切りかかる。当然のようにかわされ、体勢を立て直してヅラの太刀を受ける。つばぜり合いはすぐに力負けして、後ろへと飛びのく。 目は悪くない。ちゃんとヅラの剣筋を読んでいる。ただ身体が全くついていってないけれど。無駄な動きが多すぎて振りまわされるから息もすぐに上がってしまう。 それでも最初に会った頃からはずいぶんと強くなった。重心も安定したし、剣先のぶれも少なくなった。力任せにつっこんでいくだけじゃなく計算も覚えた。かれが、おれたちに見えないところで練習しているのを知っている。 向こう見ずで身の程知らずで青臭くて、諦めなきゃいけないことと諦めなくてもいいことの線引きなんかまだなくて。 若いなぁと思う。けれど利用され裏切られ斬り捨てられてきた、無数の若さを思っては胸が苦しくなってくる。だってあいつらは残らず無残な散り方をした。それともあいつはそうじゃないとでもいうんだろうか。生き残った臆病なおれに、奇跡でも見せてくれるんだろうか?瞼の裏がぴくぴくしてくる。閃いた予感は、嘘みたいにすぐ消えた。 新八がブロック塀のほうに追いつめられるまではあっという間だった。ヅラは刃を返したと思うと柄で新八の手元を跳ね飛ばした。木刀が宙を舞う。新八はとっさに這いつくばって手を伸ばそうとするが、その刀身をすかさずヅラが踏みしめた。 「勝負あったな」 新八はふう、と大きく息を吐くと、膝を払って立ち上がった。上がりきった息をいなす。 「ありがとうございました」 道場でするみたいにヅラに一礼をすると、木刀をのろのろ拾って、それからおれの方へと歩いてくる。ヅラはお役御免とばかりにさっさと万事屋のほうへと帰って行ってしまった。おい、置いてくなよ。おれも続きたかったけれど、そういうわけにもいかない雰囲気だ。 何かを言わなきゃいけないような気分になって、おれは喉を鳴らした。 「気ィ、済んだか」 言ったあとでこれが正しい問いかけだったのかはわからなかったけれど、新八はぐいと頬の汗と泥を拭って、それからうなだれた。 「悔しい」 ひび割れたような新八の声が響く。 途端にあたりはしんとして、さっきまで聞こえていたはずの車や豆腐売りの音まで遠ざかった。ざざ、と雑草を揺らす風の音と、緑の刺すような匂いが鼻先をかすめる。 新八は訴える。 僕は強くないし正しくもない。考えることも浅はかで、空回りばっかりだ。それでも。と言った喉がごくりと上下した。まっすぐから見据えた、新八は痛ましそうに目を細めた。 「僕はあんたみたいになりたい。あんたのなりたかった、あんたみたいになりたい」 おれのなりたかった、おれ? とっさに先生のことが脳裏を過る。おれはああなれなくてよかったと思っているのに。 新八の食いしばった歯の下から、軋むような言葉が、俺の鼓膜を震わせる。 「あんたにもういっぺん、誰かを信じたいと、思わせたいんだ」 覚悟じゃなくて、諦めじゃなくて。いまわの際まで足掻けるように。 「僕はあんたと一緒に死にたいんじゃない、生きのびたい」 視界は薄暗いはずなのに、新八はきらきら輝いて見える。嘗ての、思い出の中できらめく幻のようなそれじゃなくて、今こいつが身体じゅうから立ち上らせている熱はむせかえるようで、そんなものを突きつけられては、もうおれは目を開けていられなかった。 110622 |