もろとも
「新ちゃん、行ってきます」 遠慮がちな声が襖の向こうからする。 「お買い物のあと、そのままお仕事行っちゃうわね。ご飯セットしといたから、お茶漬けでもなんでもお腹に入れておきなさい。体に毒だから」 姉上の声は優しい。それだけ言うと、足音はゆっくり廊下を遠ざかっていった。 僕はこめかみを机にへばりつけたまま、返事もできずに瞬いた。 姉上に気を遣わせることも、優しくされることも、申し訳なくて同じだけ自分に腹が立つ。 自分が庇護される子供だ、ということが、それに甘んじていることが、悔しくて仕方ない。相槌すら打たなかった依怙地な自分の態度を思い返したら、急に泣いてしまいそうになって上半身を起こした。ぶるりと首を振る。 部屋の端に置かれたお通ちゃんの等身大のポップ、いつもだったらプリントのお通ちゃんと目が合うだけで無条件にテンションが上がるのに、今は印刷がやたら平面的だということをどこか冷静に観察してしまって、どうにも塞いだ気分は霧散してくれそうになかった。 窓の外、木の枝がそよぐのをぼうっと眺めていたら、窓枠からいきなりにょきっと手が生えて、僕は潰れた悲鳴を上げた。 「ぎゃ、」 下から競りあがってきたのは馴染みたくもないのにお馴染みの、鳶色のつんつん頭だった。 「こここ近藤さん、アンタ何してんですか人の家で!」 尻もちをつく態で後ずされば、無遠慮に窓が開いた。 まあまあ、と訳知り顔で宥めるジェスチャーをしてから、近藤さんは顎髭を撫でてばちこんとウインクを寄越した。 「悩み多き青少年の相談相手にこのダンディ勲なんてどうかな」 僕は全力で不愉快を顔に出す。 「姉上へのご機嫌取りのつもりですか」 「いやそういうんじゃなくてさー、未来の兄として」 同じじゃねえか。僕の目の黒いうちにそんなことさせてたまるか。このゴリラにくれるぐらいなら銀さんのほうが三億倍ましだ。 「まあまあ落ち着いて、ね」 そんなことを言いながら窓から器用に巨体を割り込ませ、片方ずつ脱いだブーツを揃えて外に出すと、お茶入れてくるから!と飽くまでマイペースに、近藤さんは僕の部屋を横切り廊下へ出て行った。僕は彼がお勝手のほうへ向かうのを見送ってから我に返って叫んだ。 「ちょ、何勝手にうろついてんだ!自重しろストーカー!」 間もなくポットと湯飲みと急須を載せた盆を抱えた近藤さんが戻ってきて、茶の間へ手招きされた。 「まあまあ、亀の甲より、っていうじゃない。何でも相談してごらん」 縁側にどっかと座った近藤さんに座布団を薦められて、最早突っ込みも間に合わない。すっかり向こうのペースだ。僕は座布団に膝をどすんと落とすと、眼鏡のブリッジを嫌味っぽく上げた。 「血税使って生活しながら市民の安全を護るどころか脅かすストーカーやってる心理は向学のためにちょっと知りたいです」 「さらっとひどいよね!辛辣だよね!今俺逃げ場ないよね!」 近藤さんは忙しない所作でポットから急須にじゃこじゃことお湯を注いで、淹れたお茶をこちらへ寄越した。 お茶は渋くてひどく熱くて、舌に乗るとなんだかぴりぴりした。玉露はちょっと冷まして六十度にしてから淹れなきゃいけないのにこのゴリラがポットから直に淹れるもんだから。舌が少し剥けてしまったかもしれない。 近藤さんはあんまり応えてない様子で、今度は少し低いトーンで言った。 「まあ、話したくないこともあるやもしれん。ただ、顔出すだけでお妙さんも少し安心すると思うぞ」 僕は頷くこともできずに両手で湯飲みを抱える。近藤さんはもうそれ以上は言わなかった。庭にはうららかな日差しが差し込んでいて、顔面を風がふわと覆う。 泳がせた視界の底、置いた近藤さんの骨ばった手に、立派な剣だこがあるのに気づいた。いつだか、田舎に居た頃は道場をしていたと話していたのを思い出す。僕は近藤さんがまともに闘っているところを見たことはないけれど、土方さんや沖田さんたちを統べているだけのことはあるのだろう。 普段見ている姿が姿なだけにイメージしづらいけれど、このひとは現役で、今も日々死線をかいくぐっているのだ。 「……近藤さんは、」 口を開いてしまったあとで、暫し躊躇う。 「ん」 近藤さんの声が、促すでもなく優しかったので、僕は残りを吐き出した。 「どんなひとなら、背中を預けて闘えますか」 控えめに視線をあわすと、近藤さんは、そうだなぁ、と目を眇めた。 「一緒に死んでも構わないやつ、かな」 その声音からせりふが酷く浮いて聞こえて、僕は意味を咀嚼するのに時間がかかった。 僕の動揺を察してか、近藤さんはゆっくり、ひとことひとこと丁寧に話し始めた。 「俺は、俺に命預けて闘ってくれる組の奴らのこと、みんな護りたいと思ってる。俺が命張ってでも、護ってやりたいって。だから、」 「だから俺が背中を預けきれるのは、そいつを道連れにしてもいいと思うやつだけだ」 ごくりと、自分の喉が鳴った。声は掠れてしまった。 「何人、いますか」 「んー、そうだな、」 近藤さんは少し考えたように目を伏せて、ふと歯を見せて笑った。 「ひとりだけかもしれんなぁ」 俺はエゴイストだからさ、と言い添えて、今度はまっすぐから僕を見据えた。近藤さんの目は誰かに似ていた。遅れて思い至る。剣を教えてくれていたときの父上のそれに似ていた。 「でもな、あいつは、誰も死なせたくないんだと思う」 あいつ、というのが誰を指すのか、わかって僕はどきりとした。核心に切り込まれて動悸が跳ねる。 「あいつの剣はそういう剣だ。どこまでもひとりきりで闘う、」 そうだ。そうなんだ。だからきっと、銀さんは桂さんとも袂を別った、 「でも、」 僕の声は縋るように聞こえて、それが自分で情けなかった。 「それって誰も信頼してないってことでしょう、つまりは」 「さあ。そうなるのかね」 「なんでもひとりでしょいこんで、しょいこめると思って、」 乱れた自分の息が疎ましい。頭はどんどん真っ白になって、僕はそこで口をつぐんだ。近藤さんは僕のせりふをずっと待って、それから小さく頷いた。 「大事だからこそ、一緒に死んでもいいなんて思えんのだろう」 僕は大きく首を振った。もう顔を上げていられなかった。鼻の裏がつんとして、必死で顔を歪めた。こんなところで泣くのだけはいやだった。 僕は、大事にされたいんじゃない。護ってほしいのでもない。 「…・・・かた、さんが、羨ましいです、僕は」 近藤さんは、そうか、とだけ言った。衣擦れの音がしたから、多分近藤さんは腕を組んだのだろう。 「でもそれをあいつが望んでいるのか、俺にはわからんよ」 今でも。そう呟いた近藤さんの気持ちは、僕には想像もつかない。 110116 |