掌ヘヴン











耳鳴りがぶつん、と途切れた。




ぽかりと目が開く。

天井。木目。これは怖くない。怖くない。俺はまだ死んでない。
そこまで考えて自分は目が覚めたんだと思った。動悸が耳元でうるさい。

夢だ。厭な夢を見た。
画面も音も記憶にない思い出せないけれどあれは悪夢だ。



心臓はまだ病気みたいにばくばくしている。
腹の上に載っていた雑誌を机に放って、攣りそうな腿に力を入れて身体を起こす。
湿った手がビニルレザーのソファでちり、と鳴った。
その感触に戦慄して、
ソファからずり落ちそうになりながらも掌を拡げて見る。良かった何も着いていない。

当たり前だ。これは夢の続きじゃない。


背中に貼り付く着物は汗でびっしょりしている。
いがらっぽいものが舌の付け根で絡まって口の中で厭な味がした。

耳の後ろががんがん軋む。まだ床が揺れているような錯覚がする。

急に吐き気が込み上げてきて、俺は喉を振り絞って大きく咳をした。
けれど何も出なかった。喉が引きつったように痛んだだけだった。



まだ日は高い。部屋は静まりかえっている。
新八はどうしただろう。寝入り端に買い物に行くと云っていたような気がする。
俺はそのまま、ジャンプの事とか夕飯の事とか
そういう他愛もない日常に頭を戻そうとしたのだけれど上手くいかなかった。

思い出したくもないのに意識の隅で、夢が夢のまま点滅する。
思い出したくもない感触が掌や肩や瞼のすぐ上で黴の胞子みたいに繁殖しだす。
汗が乾いたのかしょっぱい臭いと
それに混じってねばついた噎せ返るみたいな臭いがたちどころに俺を包み出す。
幻に決まっているのに感触は臭いは打ち消せないほどリアルでこんな時俺は
気のせいと現実にそれほど差なんてないってことを厭と言うほど思い知らされるんだ。



気持ちが悪い。
身体を中から裏返してしまいたいくらいに気持ちが悪い。
どうにもならなくて名前を呼んだ。それはもう惰性みたいなものだった。

「しんぱち」
声は思ったよりみっともなく掠れていた。 

「新八」
少し張り上げて繰り返す。返事はない。

もう一回。


「しんぱ」
言い切る前に斜め左の襖が開いて
「聞こえてますよ、うるさいなぁ」
洗濯物を手一杯抱えた新八が無愛想に云った。
俺は半分独り言のつもりだったからびっくりして目をぱちぱちさせた。



「どうしたんスか」
促すように云う新八に俺は少し戸惑った。
どうにもならずに名前を呼んだだけだったから、
いざ何の用かと聞かれても自分がどうして欲しいのかわからなかった。

だから俺は何をして欲しいんだろうと考えた。そしたら言葉は咄嗟に飛び出していた。


「だっこ」
だらしなく両手を伸ばす。実際腕は俺のものじゃないみたいにだるかった。
新八は表情を変えずに肩を少し竦めて、洗濯物を下ろして、それからまっすぐ腕の間へ来た。

腰に正面からしがみつく。両手首を掴む。
眉間を腹に付けるようにして顔を伏せた。

子供の匂いだ。
日向と埃と石鹸のにおい。
もうあの噎せ返るみたいな臭いはしなかった。

身体から力が抜けた。
俺はほっとして、
そのほっとしているという事に愕然とした



得体の知れない 感触だけの 厭な夢を見ても
突然血の臭いに見舞われても
以前の俺なら一人でもどうにかなった
息を吸って吐いてやり過ごす事が出来た

どうでもいいことだと噛み砕いて平気な顔をし続けていられたのに


「お前が来てからろくなことがねぇ」
畏れも安堵も胸苦しい忌々しい感情全て
お前が来るまで忘れていたのに
「お前のせいだ」

俺の世界はぼやけていて、死ぬ事だって怖くなんかなくて
俺はそんな俺をよく知っていてうまくやっていけていたのに。
俺が俺の知ってる俺でなくなっていく事が何より

怖ろしいと、思う


「みんなお前のせいだかんな」
新八は うん、とだけ云った。
それから掌を俺の左肩に載せた。
体温は肩胛骨からじわりと伝わって、胸が塞がるような錯覚がした。


俺が怯えている無数のものをもたらした相手に
何故こんなに安らいでいるのだろうと思う
こんなに不条理なこともないと思う


それでもここはなんてきもちがいいんだろう








モドル