三十六計
「いつまで寝てるんですか」 「んが」 鼻から出た変な声で目が覚めた。自分の声だった。腹の辺りが淋しくなって、今剥ぎ取られたのが布団なのだと気づいた。 ぼりぼりと頭を掻きながら身体を起こす。新八はおれをシッシとどけて、てきぱき布団を畳んでいる。 窓から差し込む陽の光でことさら血行がよさそうにみえる横顔を伺って、 「あーそうだよ、そういう奴だよオマエは、わかってた俺」 ひとりごちたら手を止めないまま新八が聞き返す。 「なんですかいきなり」 「夢ね、夢見たんだけど」 夢、と云った途端に新八の頬が歪んだ。 「はぁ」 他人の夢の話なんて多分この世で一番どうでもいいことだ、そんな顔をする気持ちはわからなくもないけど。まあ簡潔に話すから聞いてよちょっとぐらい。 「クマと遭遇したらね、お前がおれをオトリにして逃げようと」 よいしょ、ふとんを押入れに突っ込んで、新八の背中が云う。 「なんで僕がそんなしてもいないことに対して責められなきゃなんないんですか」 「でもお前実際そんなことんなったら逃げるだろ」 押入れの襖が滑る、スパンという音の下から、 「逃げます」 何の躊躇もなく答える。ウン、知ってた。 別に寂しかない。むしろほっとした。 そういうミもフタもないこの関係が俺には心地いい、 却って、見捨てませんとか護りますなんて云われたらものすごく居心地が悪くなる、だってそんな言葉はおれを追い詰める。 半分ばかり開け放された襖の向こう、茶の間からは神楽のせわしない咀嚼音が聞こえる。オカワリーという脳天に響く声。 あくびをひとつして甚平の裾から腹をかきながら襖を全部開ける。茶の間に出れば飯をかっこむ神楽の横、ソファに招いてもいない客があった。おれが顔をしかめたのと、 「邪魔してるぞ」 「云い忘れてたけど、桂さん来てます」 ふたりが発音したのはほぼ同時だった。新八は軽い足音を立てて台所の方へ行き、おれは髪をぼりぼりと掻いた。どうせまた追われて飛び込んできたのだろう。 「笠ぐらい取れよ」 ぺっと引っ張れば下からもう一枚でてきた。もうやだこいつ。おれは向かいのソファに腰掛け、取った編み笠をソファの端に放った。 「オバQは」 「二手に分かれた。オバQじゃないエリザベスだ」 しょうもない会話はごっつぁんでした、という神楽の声にかき消される。そのまま片付けもせずに神楽はおだんごをまとめて忙しなく部屋を走り出て行く。 おれはテーブルに出されていたいちご牛乳をパックのままあおった。薄目でヅラをじろと見る。ヅラはおれの視線に気づかない振りでしれっとしている。そう、おれたちはこんなんでいい。 おれはいつだってしれっとしていたいんだ。湿っぽいのはめんどくさい。 おれがヅラのことをいやになったのも、こいつ自身がいやになったんじゃなくて、こいつの中の弱いところにおれが気づいてしまったからだ。 ぎんとき、とあのとき動いたこいつの唇は今はなにごともなかったかのように茶を啜っている。 おれは呼ばれて竦んだ足を思い出す。 強いと思っていた。なんでもかんでもしれっとして、人を斬っても怪我をしても仲間が斃れても顔色を変えなかった。それなのにあの日。 無茶な人数に囲まれて、おれも自分のことで精一杯だった。聞き覚えのあるうめき声に振り向けば、こいつは正面からまともに斬られて自分の血溜まりに膝をついていて、足を竦ませたおれに向かって、 行け、と云った。唇は震えていた。今でも覚えている、白く覗いた歯はかちりと鳴った。 それでこいつだって弱いのだと、強いのではなくただ単に弱みを見せなかっただけだとわかって、それで隣にいることがこわくなった。 今の距離感ならちょうどいい。 たまになんでこいつと離れてしまったのだっけ、とぼんやり考えるぐらいにはしっくり噛み合う。厭な言い方をすれば古女房みたいに、欠けたピースが埋まりあうのを感じる。そうして完成したパズルは酷く歪んでいるのだけれど。 手からいちご牛乳のパックをひったくられて身を竦ませる。 新八はおれの前に干物と漬物の皿を置き、神楽の前にあったおひつを空けた。中身はほとんどなくなっていたけれど米粒をこそげとってようやく半膳ばかりたまった茶碗をこちらへよこした。 それから割烹着の裾で手を払って、編み笠を避けておれの隣に座った。いつもより心なしか距離が近い。 おれは惰性でいただきますをして茶碗を顔の前に持ってきた。茶碗の淵でヅラを見て、新八を見て、その距離になんだかため息を吐きたくなった。安堵と苦しさがない交ぜになったような変な感覚だ。 あれでこりごりだと思ったのに、おれはまた。 口蓋でぼりぼりと沢庵が鳴る。新八のすする茶の音がヅラのそれと小さく重なった。 おれは知ってる。 きっとこいつも肝心なときに逃げてくれないんだ。 逃げないでいたっていいときにはとんずらこくくせに、逃げて欲しいときに限ってそうしてくれない。 それでも新八なら、十六のヅラやおれにできなかったことができるかもしれない、そんな詮無いことを考える。二人で死なずに自棄にもならずに担いで逃げてくれるかもしれない。 しんどくてめんどくさくてもう諦めたほうがどんだけ楽かわからなくたって諦めないこと、 それはおれからしたら無敵だ。そんなふうになれたらおれだって負け犬にならずに済んだかもしれない。 自分の膝にしゃんと置かれた新八の手は、水仕事に荒れてもまだ瑞々しくておれやヅラほど筋張っていなくて、それが眩しくて、同じだけ怖ろしいと思った。 090801 |