つぎの夜へ




 「おかえり」

 おれと神楽を迎えた新八はそれだけ云うと、茶を入れてよこした。

 テンションのあがった神楽は身振り手振りを交えて、おれを見つけるためにどれだけ苦労したかを語る。帰り道におれが聞かされたのよりだいぶ脚色が入っているのを見るだに、おれにした話の信憑性も知れるというものだ。
 神楽の話をハイハイと聞き流す、眼鏡の下の表情がよく読めなくて、おれは目の前の茶を黙々とすする。茶は火傷しそうなくらい熱かった。
 話にひと段落がついたのを見計らって、新八はおかんみたいなため息をついた。
 「お風呂沸いてるから、入ってきちゃいな」
 
 

 鼻歌が風呂場の方へ移動し聞こえなくなると、新八は腰を上げ、テーブルの上の湯飲みを盆に載せ始めた。
 おれも所在なく席を立って、手伝うでもなく背もたれを掴む。
 カチャカチャ言う音。風呂場から聞こえる水音の下から、苦々しい声が届いた。

 「あンたの云うことなら聞くんですよね、あのこ」

 どうせ僕は。せりふはそこで止まって、喉にひゅうと吸い込まれる。
 云ってしまった事に対して後悔したみたいな、そういう気まずい間だった。

 促すつもりはなかった。ただ乾いた唇をなめようと小さく口を開けたのと同時に、新八は自棄になったみたいに云った。

 「まだあんたみたくなれませんから」

 その声音が、こいつがふてくされている、ということが、ようやくおれの頭にすとんと落ちてきた。
 安堵にも似たぬくもりが、おれの中へ波紋のように広がって、そのばかばかしさにおれはちょっと泣きたくなった。

 こいつも。
 こいつも、またおれと同じように、時間と闘っているんだ。決して勝ち目のない戦いを、ひとりぼっちで続けている。 
 十年後も、一年後も、明日だって待てない。
 今、なければどうにもならない力を、欲して唇を噛む、こいつは、

 いつかのおれの幻だった。


 一歩、ぎこちなく近づく。拳を顔に強く当て、ぐし、と鼻をすする新八の、少しだけ赤くなった目元と、強情そうな眉の形に、この年のころおれの舐めた血や苦痛や辛酸が頭を駆け巡る。いのちも感情も、見殺すことしかできなかったあのころ。
 けれどそれは鮮明ではなく、モノクロームの映画のように褪せて、擦り切れどこか甘やかですらあった。そうだ、だから、おれは大人でいられるんだ。
 


 戸が騒々しく開いて、タオルを肩にかけた神楽がぺたぺたと床を鳴らす。
 「出たヨー。あったかいアル」
 神楽はおれと新八の顔をちらと伺うと間に割り込んで、銀ちゃん怒られたアルか、メガネも硬いことゆーなヨ、と茶化した。

 「銀ちゃん手冷たいネ」
 そう云っておれの手を握る。
 気まずいの半分照れくさいの半分でなんとなく逃した視線の先の、新八はもういつもの顔に戻っていて、ほんとだ、冷えてますね、ともう片手を掴む。

 右手と左手を取られて、目を瞠る。
 新八の手は思ったよりも大きく、神楽の手は思ったよりも柔らかい。そしてばかみたいに温かかった。それだけのことがどうにもおれを呆然とさせた。

 まだおれは『銀さん』でいられる、こいつらの導でいられる。
 それがそう遠くない明日までだったとしてもだ。

 ともすれば筋がひきつってしまいそうで、顔を見られたくなくて、ほぼ反射的におれは二人を背中ごと抱きこんだ。ずいぶん不恰好な、力任せな抱擁だった。
 腕の中から面食らったような声が届く。
 「銀ちゃん痛いアル」
 「ちょっと、苦しいんですけど」

 おれがなにも云えずにいると、口々に漏れた抗議はだんだん小さくなった。
 タイミングを見計らったように、神楽の手が腰のあたりに、続いて新八の手が背骨のあたりにそっと回されて、軽くぽんぽん叩いた。おざなりもいいところなのに、胸がいっぱいでいまにも破裂してしまいそうだ。



 明日、あさって、しあさって、
 そうしてだんだんと明けていく夜に、
 おれはこれを刻み付けておこう。そうすれば、
 いつか訪れるひとりぼっちの朝を、今だけ忘れていられる気がした。







モドル