星守る
「帰ってこないネ」 窓の外を眺めながらそうぼやく神楽ちゃんに、僕は運針を止めずに応えた。 「そうだね」 ネオンや車の明かりがときおりガラスに飛び込み、神楽ちゃんの横顔を照らす。 ピンク色にちかちかする頬が歪んだ。 「昨日も、朝まで帰ってこなかったアル」 声にあわせて畳の上、くるぶしが忙しなく擦り合わされる。 「給料入ったらしばらく飲み歩いてるのなんか、いつものことじゃない」 宥めれば、でも、とふくれた声が反論する。 「いつも遅くなるときは、ババァにわたしのこと頼むって電話してたヨ」 部屋の端で眠る定春のいびきがごおと鳴った。 歯で糸を切り始末して、神楽ちゃんには聞こえないように僕は小さく息を吐く。 原因はたぶん僕にあると思う。あのひともなんか気まずいとか、そういうのがあるんじゃないだろうか。普段あんなにいろんなことに頓着ないくせにこんなときだけナイーブとか笑わせるけど。 おとつい、僕らはセックスの真似事をした。 生々しくて汗臭くて艶かしさのかけらもなかった。アルコール臭い唾液の味を思い出す。 僕らは男同士だし、そこにフワフワした甘酸っぱいものが介在することもなく、実際僕はほぼ痛いだけだった訳だけれど。 目の前の川で溺れている人の手を取った、とか、飢えて死にそうな人に握り飯をあげたとか、感覚としてはそれに近い。 ただ憶えている限り、あんなに頼りない表情の銀さんを見るのは初めてで、僕や神楽ちゃんの前では取り繕うとしていたもろさ、みたいなものを垣間見て、僕はなんだか少し嬉しかった。いつも上手上手ばかりを行く彼でもこんなにどうしようもなく心細くなることがあるんだと思って、思ったら少しばかり安心した。僕はいつだって銀さんみたいになりたくて、その距離を思い知らされてばかりだったから、なおのこと彼の弱さが嬉しかった。 あるいは試されていたのかもしれない。だとしたら、僕は存外上手くやれたと思う。 あんなことじゃ僕は揺らがない。もっと洒落にならない、血腥いことが僕らの間に起こったとしても、変わらず傍にいる自信がある。大げさかもしれないけれど、僕はそれを誇りに思っている。 かっこつけていた相手にみっともないところを見せてなんとなく顔を合わせづらいのはわかるけど。 僕なら別に気になんかしてないのに。 柱時計が鳴る。もう十二時だ。僕はちょうど縫い終わったぞうきんを畳み、裁縫道具を仕舞うと腰を上げた。 「ホラもう遅いし、寝よう」 十二時には眠くなくても布団に入る、ことは神楽ちゃんと銀さんの間で取り決められているルール。彼女を寝かしつけたら、僕も今日は奥の八畳に泊まって行くつもり。 「銀さんなら大丈夫だから」 肩にかけようとした手が、強い力で撥ね退けられる。 怯んだ僕に、神楽ちゃんは眉を吊り上げ色をなした。 「オマエに何がわかる」 僕を睨む目つきは鋭い。頬は紅潮していた。 むきになったみたく神楽ちゃんは云った。 「銀ちゃんのことわかった気になるなんて、百年早いアル」 つっぱねられた手が、じんじんと熱を持っていくのを、どこか心とは遠いところで感じて、僕は一瞬言葉を忘れた。 神楽ちゃんは勢いよく立ち上がると、僕の前を駆け抜けていった。 「探しに行ってくる!」 玄関の戸の開く音におどろいて、ようやく僕の身体もぎこちなく動いた。 「神楽ちゃん!」 後を追って裸足でたたきに下る。入り口を出て柵に寄りかかれば、神楽ちゃんの背中はもう道路まで下りきっていた。 「もう遅いし、待」 上擦った僕のせりふは憎まれ口にかき消された。 「うっさいバカメガネ!」 そのままどてらを羽織った背中が雑踏にまぎれてしまうまでを呆然と眺めて、眉をひそめる。 僕の大丈夫、ではあのこは安心できない。 自分の思考を今ぐらぐらにしているのはそのことだと、思い至って僕は奥歯をかみ締める。そんなこと、思い知りたくなんかなかったのに。 疼いている心臓が自分でも厭で、僕は袷のあたりをぐしゃりと握った。 090208 |