かなしき午前零時
「銀さんが食べ物の誘いを断るなんて、拾い食いでもしたのかしら」 箸を運ぶ速度は落とさずに、姉上が云った。 「ほーに違いないネ、そういや昨日もトイレにこもってたアル」 対する神楽ちゃんの箸も止まらない。口いっぱいに肉を頬張りながらもちゃもちゃしている。 食べ放題とは云えものすごい勢いで積みあがっていく皿に、店内の視線は無遠慮にこちらへ注がれている。店員はもの言いたげにしてるけど無視。食べ放題と云ったからには責任取ってもらわないと。 僕は高速の箸が飛び交う網の一角でじんねりカルビを焼いている。 「でもちょっとくらい腹壊れてても来ますよね普段は」 「あ、店員さん、こっちお代わりお願いしますー」 姉上のよく響く声が隣のテーブルの店員を捕まえた。どうやらこれ以上話をひっぱる気はないらしい。 僕はおとついの、様子が少しおかしかった銀さんをぼんやり思い出して、でもだからってちょっと憂鬱んなった程度であの現金極まりない人が焼肉断るかなぁ、と首を捻る。 視線をあさってにそらした一瞬の隙に、横からひゅっと伸びてきた神楽ちゃんの箸が僕の育てていた肉を掻っ攫った。 「あ、ちょ、ここ僕の陣地って云っただろォ!」 「新ちゃん、これ銀さんに持っていってあげなさい」 神楽ちゃんの分の布団を客間に敷いて茶の間に戻ると、姉上が重箱をずいと突き出してきた。 姉上の笑顔は邪気のないものだったけれど、渡されたタッパーからは禍々しい臭いが立ち上っている。 「でででも、もう夜遅いですし…」 目を壁時計のほうへざばざば泳がせるけれど、声は反論を許さない力強さで畳み掛ける。 「何にも食べないと身体に毒でしょう」 どっちかっていうとこっちのほうが身体に毒だ、と思ったけれど僕だって命が惜しい。心の中で合掌して重箱を受け取った。なんでこんなに刺激臭がするんだろ、姉上の料理。 風呂上がりの神楽ちゃんと廊下ですれ違ったら、僕の抱える風呂敷包みの臭いに苦虫を噛み潰したような顔になった。しょっぱい笑顔を返す。 早いところこの危険物をおしつけてきてしまおう。僕は玄関へと急いだ。 万事屋の電気は消えていた。おかしいなと思って近づくと、玄関の戸が半分ばかりも開いている。うちに泥棒が入るわけもなし、多分銀さんが飲んだくれて帰ってきて戸も引かないままでいるんだろう。全く、肉は食えなくても酒は飲めるのかよ。僕は早足で階段を昇った。 案の定戸の隙間から脱ぎ散らかされたブーツが見えた。ため息を吐いて身を滑らせ、後ろ手に戸を閉める。 「銀さん、入りますよ」 ぞうりを揃えもしないで脱いでずかずかと上がりこむ。 きょろきょろと見回したけれど居間にはいないようだ。脇に視線を戻してぎょっとした。銀さんは玄関から死角になった、流しの下に座り込んでいた。 手には空のコップが握られている。乾いているところを見て、多分水を汲もうとしてここまできて力尽きたんだろう。 ここまで漂うくらいに酒臭い。ふう、と肩を落とせば、気配に気づいたのか銀さんが唸った。 「しんぱち」 がらがらの声が僕を呼ぶものだから、脇に風呂敷包みを置いて、やれやれとしゃがんで顔の高さを合わせた。俯いたままの顔を覗き込もうとしたら、ふいと逸らされる。裏腹に手は袖をぎゅうと掴んだ。 「ここにいろ」 ひゅうひゅういうせりふをやっと聞き取って、僕は呆れて笑った。 「はいはい」 布団に放り込む前に水を飲ませてないとな。袖を取られた僕は銀さんの手元に目を留めた。 コップを握り締める指を一本ずつ、辛抱強く解いていく。握り締めすぎて白くなった指はびっくりするほど冷えていた。 ようやくほどいたコップを持ち替え、膝をついて立とうとしたそのせつな、ものすごい力が僕の二の腕に食い込んだ。バランスを崩した僕の身体は床になぎ倒され、銀さんの上体に押さえつけられる形になった。 暗がりの中、至近距離で向き合った銀さんは笑っていなかった。おおよそ僕が見たことのない、殺気すら孕んだひどい眼をしていた。充血して、(泣いていたのかもしれないと、感情とは遠いところで思った)開いた瞳孔が僕を捉えてひくりと揺れた。 「拒むな、おれを、」 拒むな。叫びは悲痛だった。搾り出すような咆哮に息をのむ。 「わ」 掴んだ袷を思い切り肌蹴られて、僕の喉からひきつった声が漏れた。 銀さんの目は暗闇で肉食獣のようにぎらついていて、生理的な恐怖と、それから銀さんの瞳から流れ込んでくるようなどうしようもない悲しみが、僕の身体を竦ませた。 銀髪が僕の喉元に覆いかぶさる。歯を立てられたので噛み殺されるかと思った、けれど肌を掠めたエナメル質はそれ以上食い込んでは来なかった。 喉仏を舌で撫で上げられて初めて、朧げながらこれから銀さんがしようとしていることに思い至った。そんなばかな。だって僕の身体は硬いし筋張っているし、発展途上とはいえもうすっかり男のもので、慰めを求めているなら思い切りお門違いだ。女の代わりになんてされたくない。 腹が立って突き飛ばそうと抱き込まれた身体を捩ると、くふ、と怯えた犬のように鼻が鳴る。 「んぱち、」 銀さんの唇が、鼻先にぶつかりながらようやく僕の唇を探り当てた。酒臭い息が甘く僕の口元を濡らす。もう一度、ひび割れた唸りが耳に届く。 「新八」 そこでかれが名前を呼んでいるのは紛れもなく僕だとわかって、そうしたら段々と怒りが醒めていった。 かれが誰でもない僕に助けを求めているのならば、それなら僕も応えよう。どうしようもなかった僕に手を伸ばした彼のように、今僕がかれに手を伸ばさなきゃと思った。 這い回る舌の感触はどこか辿々しくて、決して気持ちのよいものではなかったけれど、時折掠るむずむずする感覚に努めて集中する。強張ったからだから、僕は力をどうにか抜いていった。 物理的な痛みよりも、すすり泣くような銀さんの声ばかりが、僕のこころの柔らかいところを抉ってしかたがない。 081115 |