ゆらぎの体温







魚をほぐす箸の動きを視線で追いかける。
決して綺麗な運びとは云いがたいけれど、小さい身まで取りこぼすことなく拾う。皿を見つめる目つきは真剣そのものだ。
僕はついと俯いて味噌汁を啜った。メガネが曇る。


お通ちゃんへの胸のときめきとか、プレイボーイを読むときのざわめきとか、それとはちょっと性質が違うけれど、
この女の子が好きだと思う。確かに。

僕が知っている限り、一番強くて、そして一番脆い女の子。

ほんとは誰より優しいのに、本能が戦場と流血を求めて止まない。
意識も理性もない猛り。そんなものに体の中から食い荒らされるかもしれない恐怖と常に隣り合わせだなんて、考えただけで身震いがする。
野生に引きずられて誰かを傷つけたり殺めたりすることがあったら、柔らかな心は壊れてしまうだろう。どれだけ残酷かわからない。

このこが、自分を嫌いにならないでいられるように、僕にもできることがあると思った。あるはずだと。

僕がもっと強くなったら。君がもっと女の子になったら。そのときには。
ずっと傍にいたいと、伝えたいと思う。



「さっきから何見てるアルか」
声に意識が引き戻される。ぱちりと瞬けばぶすっとした神楽ちゃんと目が合った。

「銀ちゃーん!」
ぼうっとテレビを眺めている銀さんに向かってがなる。あ、ご飯粒飛んだ。
「このメガネが好色な目でわたしのことを!」
「ちょっとちょっと!」
なんだその言い草!中腰で噛み付けば神楽ちゃんはゲラゲラ笑った。全く、デリカシーもくそもないんだから。



「いってくるアルよー」
玄関から届く声に、僕は怪訝に思って振り向いた。
「ちょっと、お皿ちゃんと洗った?」
「洗ったヨー、定春、行くアルよ」
「わうっ」
駆け出した定春の巨体をよけそこなってよろめく。ぴしゃんと勢いよく戸のしまる音。

僕は小さくため息をついて台所を覗いた。やっぱりちゃんと洗えていない。ご飯粒ののりがまだ茶碗にこびりついている。
漬け置きをしないからだ。いつもあれだけ云ってるのに。
僕はぶつぶついいながらも盥に水をためる。こういうの小姑みたいで嫌だなぁと自嘲しながら。


ちらと居間のほうを仰げば、銀さんはぼんやりとジャンプを抱えている。
抱えている、といったのは一応ページは開いているものの、読んでいる様子がないからだ。焦点は全くぶれずにうつろに一点にとどまっている。

怒っているふうでもない。難しいことを考え込んでいるような、逆に放心しているような、とにかくいつもよりも得体の知れないかんじ。
僕は銀さんのこんな表情を見たことがない。

なんだか尻の辺りがむずむずするような、すわりの悪い気分になって、僕は割烹着の前で水を払った。大またで銀さんの座る机に近づく。
「なんか、変ですよ最近」
暫し考えたような間があって、
「どこが」
低いトーンの声が返ってくる。僕は歯の裏をひとつずつ、舌でなぞりながら言葉を選んだ。
「どこって…なんとなく」
「なんとなくじゃわかんねーよ」
銀さんの言うことももっともだ。自分でも要領を得ないと思う。僕はもどかしくなってぶるりとかぶりを振った。

「なんかよそよそしいっていうか。云いたいこと黙ってるっていうか。そういうのモゴモゴするの、僕ららしくないじゃないですか」
なんでもかんでもズケズケ云って、イヤミにはイヤミで返して、あかんべをしあうのが、僕らの常だったから。

「おれららしい、ね」
銀さんは少し笑ったみたいだった。でもその笑い方が、上手くいえないけれども、なんだろう、そう、寂しいと思ったんだ。腰の辺りからぴりぴりした痺れが上ってくる。

「いやさ、思ったのよ、オマエも子供じゃねぇんだなって」
ホラいつもお前ら俺の後カルガモみたいについてきてたじゃない。
急に雄弁になった銀さんの、唇の動きを凝視する。一言も聞き逃しちゃいけないと思った。

「それで、銀さんちょっと、」
ぐ、と息を呑むような、かれにしては珍しい間があって、それから掠れた喉が鳴った。
「寂しい、と思っちゃったわけ」


そんだけ。
どうやら話はそれで終わりのようだった。僕は重い瞬きを一度した。
なんだか父親だか母親だかのようなことを云う。なるほどその類の感慨だと思った。

考えてみたら見当違いというか、銀さんは別に僕の親でもなんでもないわけだし、出会った頃から僕は思春期だったわけだから、驚くようなことでもないと思う。
でもなんだか笑い飛ばしてしまえなくて、そして寂しい、と云わせてしまったことにたいしていいようのない罪悪感みたいなものが胸に押し寄せてきたものだから、

腹から短く、太い声を出した。
「ばかだな、」

二歩近づいて机の上、銀さんの手の甲に掌を重ねる。
「僕が神楽ちゃんをどう思ってたって、僕らは何にも変わらないんですから」
言い聞かせるというより、どちらかといえば自分に確認するみたいな言葉だった。言葉は思いの外力強く、僕の耳に届いた。

手はたじろぐでもなくじっとしている。銀さんは、うん、とだけ云った。
俯いていてこちらからは表情が伺えない。なぜだか、今かれの顔を見ちゃいけないような気がして、代わりに僕は障子紙の染みをずっと睨んでいた。






080915



モドル