貪るその手








網膜越しに眩しい光が届く。ああもう朝か。めんどい。
体中に当たるのは床板の固い感触。結局昨晩は布団までたどり着けなかったらしい。
たゆたう意識に、外界の刺激が差し込み始める。

背中のほうでばたばたと忙しない軽い足音。神楽かな。朝っぱらから元気なこって。
ギイと鳴るのはレールを滑る立て付けの悪い扉。新八が来たんだろう。
「こんちはー、て、どこ行くの」
「デートあるー」
「デ、デート?!」

「うっそ〜」

きゃはきゃはと黄色い声が届いて、引き戸の閉まる音。
ため息、ぶつぶついいながらぞうりを脱ぐ衣擦れ。


「人の気も知らないで」
小さくぼやいた、その言葉が鼓膜でわん、と響いた。
遅れて頭の芯がどんどん痺れていく。
わけもわからずおれは瞼を開けた。必死で瞬くけれども痺れは増すばかりで、ようやくこれを頭痛と呼ぶことに思い至った。


居間のドアを引き、ぎゃっ、と潰れた蛙みたいな声を上げる。

「いいいいたんですか銀さん」
酔っ払ってこのあたりで力尽きているのなんかいつものことで、そもそもここはおれのうちで、いたんですかもくそもあったもんじゃない。でも今回ばかりは、おれはいなければよかったと思った。心底。
おれは返事の代わりに、軋む上半身をむくりと起こした。

「今の、聞いて、…」
ぼりぼりと髪を掻くおれに、問うまでもないと思い直したらしく新八は語尾を変更した。
「ましたよね」
はあ、とため息を吐くと、ぼそぼそ言い訳じみた声が続く。
まだあの子は子供だし。思春期になるまで押し付けないつもりで。
わかったような口を聞いて、照れたような、ばつのわるいような表情で目を眇めた。

「内緒ですかんね」
しっ、と唇に人差し指を当てる新八に、おれは低く唸って返すのが精一杯だった。

下のほうから持ち上がってきた動悸が、胸元で爆発するかと思った。
酷い。こんな痛みをおれは知らない。

「どうかしましたか」
俯いたままのおれをどう思ったのか、新八が問う。
「どうもしねぇよ」
おれは肩を竦めて、せいぜいがんばんな、と云った。声が震えていたかもしれない。気づかれていなければいいと、思う。





夢を見る。


笑っている。逆光で顔の判別はつかないけれどこいつは新八だ。おれと同じくらいの背、りっぱな体躯。鷹揚な動作からは余裕と、そしてまっすぐな優しさが伝わってくる。

随分と大きく、節ばった手が、まっすぐ伸ばされる。おれじゃない誰かへ。そして、白くか細い女の手がその手を握る。しっかりと。


おれの喉は震える。震えるけれども声が出ない。何がしかを訴えたいのに声が出ない。
でもおれは一体何を訴えるっていうんだろう。

おれの心臓はぎゅうぎゅうと疼く。
裏切られた、と思った。それが一番近い言葉だった。
なんでおれを選ばないのかと。誰よりも先におれを救うのじゃなかったのかと。言い知れない痛みがおれの身体をめちゃめちゃにかき回す。

こいつが誰かのヒーローになろうと手を伸ばすとき、それが女の子であるのは当たり前のことなのに、だのに、なんでおれは、そんなことに思い至りもしなかったんだろう。
差し伸ばされる手がおれのものだと、何故おれは勘違いしていられたんだろう。





目が醒めると自分が泣いているのに気づいた。
肘を立て布団に座り、おれは涙も拭けずに俯いた。ぐずぐずという鼻の音。歪んだ視界もだんだんと闇に慣れ、おれはかけ布団にぽたりぽたりと出来る水玉を見ていた。
横目で見やれば隣の布団の新八がいない。トイレのほうで水音がするからトイレだろう。新八が戻ってくる前に布団を被ればいいんだとわかっているけれど、そういう気分にもなれなかった。おれは半分も捨て鉢だった。
案の定寝室の戸を引いた新八は、身体を起こしているおれに目を凝らし、ぎょっとしたような声を出した。
「どうしたんですか銀さん」
膝立ちでにじり寄る。間近で瞬きをして、泣いてる、と唸った。
「何、怖い夢でも見たんスか」

おれはこくりと頷いた。
新八は肩を落とし、早足で居間に戻った。箱ティッシュを抱えて戻ってきて、鼻紙を当ててくれた。おれは遠慮もなく鼻をかんだ。びー、という音と乾いた安いティッシュの感触。
「起きたら僕がいなかったから怖くなってきちゃったんでしょ」
声音は笑ったようだった。おれはばかみたいに何度も頷いた。


相手がおれでも、こいつはちゃんと涙を拭きに来てくれる。
それを誠実と呼ぶことを知っている。
そしてまさにそこを、おれは好きだと思ったのだ。





080904



モドル