チョコレート








様子がおかしかった神楽ちゃんのことが気がかりで、昨夜はあまりぐっすり眠れなかった。
早めに家を出ようと思っていたのだけれど、出がけに何やかや姉上に言いつけられてしまって、結局万事屋に着いたのは十一時を回った頃だった。

遅いおはようございます、を云って、扉を引く。
玄関には神楽ちゃんの靴だけ出ていた。銀さんは出かけているようだ。
台所を覗くと、流しに貯めた水に、昨晩にぎりめしを盛ったはずの大皿が浸けてあった。
「よかった、おにぎり食べたんだね」

奥に声を掛けながら応接間に踏み込む。
神楽ちゃんはいつも銀さんが座っている椅子に、こちらに背を向けて三角座りをしていた。
ここからだとおだんごだけが椅子からちょっと飛び出しているのが見える。

「具合、どう」
返事の変わりにちゃくちゃくと、昆布を囓る音が聞こえた。

僕の方を向こうとはしない。
神楽ちゃんが僕に横柄な態度なのはいつものことだけれど。いつものそれとは明らかに違った。体中で、不安だ、と訴えているようだ。僕もだんだん、心許なくなってきた。

心当たりがない、なんて、口が裂けても云えない。
僕は、いつか銀さんが記憶喪失になって万事屋を出て行ってしまったときの神楽ちゃんのことを思い出していた。
あのとき彼女を不安にさせたのは銀さんだったけれど、今彼女を不安にさせているのは、きっと、


「私、オマエのことキライヨ」
神楽ちゃんが唐突に口を開いたので、肩を少し竦めた。
憎まれ口を叩いているときの声音とは違ったから、僕は黙って続きを待った。


「でも、私は、もっとキライ」

押し潰したような唸りに、後ろから頭を殴られたみたいに感じた。
鼻の後ろを突き抜けるしょっぱさに、思うさま眉を顰めて耐える。
情けない。男だろ、と言い聞かせて、僕はわななく唇を弾いた。
「…ごめん」
「謝るな!」
語尾に被せるようにして、裏返った声が飛んできた。
鼻をすする音。
「謝るとどんどんキライになってしまうヨ」
どんどんひしゃげていくせりふに、耳を覆ってしまいたくなる。でも僕には聞く義務があるんだ。
「オマエのことも、私のことも」


椅子の背が小刻みに震えているのが見えて、僕は拳を握りしめた。そして自分の軽々しさを心底後悔した。
自分でも何て呼んでいいかわからないような、熱いだけの感情の固まり。
万事屋に、ぼくら三人の間に、そんなどうしようもないものを持ち込むべきじゃなかったんだ。

彼女をこんなに苦しめる資格なんか、僕にあるわけがない。







銀髪が階段を上がってくるのに、頭のてっぺんで行きつ戻りつしていた思考が戻ってきた。
僕は膝をかかえなおす。玄関に面した通路のどんづまりで、彼が帰るのを長いこと待っていた。

「おかえンなさい」
チョコレートがはみ出すパチンコ屋の紙袋を抱えた銀さんは、僕を見て眉根を少しだけ寄せたけれど、すぐ戻した。
「さかたぎんときただいまかえりました」
何のマネなんだか、ウッス、といい加減な敬礼を寄越して、まただらんと腕を脇に下ろす。
待ち伏せみたいなことをした僕の真意を覗いているのか、戸を開けようともせず、そのままこちらを伺っていた。


僕はきっと顔を上げて、銀さんの前髪の辺りを睨んだ。目をあわせていられる自信がなかった。
用意してあったせりふを、つとめて何でもないように吐き出す。
「あれ、なかったことにしてください」

予想に違わず銀さんは顔を逸らして、あー、と呻って、それから頷いた。
「…うん」



僕はため息を吐いた。よかった、ちゃんと云えた。膝を払って立ち上がる。
言い訳がましいと思いつつも、続いて言葉が漏れた。
「ぴったりな言葉が見つからなかったんですよね。そんでああいう言い回しになっちゃったわけで」

男と女みたいに好きだって言ったほうが、どれだけわかりやすかったか知れない。
でも僕を捉えているこの気持ちは、そんな、どこかで誰かがよく歌に歌ってるようなものじゃなかった。僕と銀さんとの間だけにあるものだと思った。
憧れだけじゃなく、執着だけじゃなく、衝動だけじゃなく。

「僕は、僕を辞めないままでいつかあんたみたいになりたかっただけなんですけど」

ああやっぱり、僕は最後の最後まで上手いことが云えない。
苦笑いをした僕に銀さんは頭を掻いた。
「、なんかよくわかんねぇや」

「そうですね」
僕は低く答えた。胸の辺りにじわりと、妙な匂いのするものが広がる。
いくら言葉を尽くしたって、伝わらないことはきっとある。
それはもう致し方のないことだし、云えば云うほど野暮になるものだ。




銀さんが袋を抱え直した。がさりと云う音。その下から豆腐屋のラッパが聞こえた。
町のざわめき。車の音なんかが、段々耳に戻ってくる。
あとは額に上った血が下がったら、もうなんでもなかったみたいにこの戸を引いて、日常に戻れればいい。
僕は上手く笑えているだろうか。

「なぁ」
あさってのほうを見ていた銀さんが、ぼそっと発音した。
「世界がおれとお前の二人っきりだったら、どうにかなれるのかもしれないけどさ」
僕はどきりとして身体を強張らせた。そうだ。
僕らをとりまくものはこの雑音みたいに、あまりに多く、巨大で、煩雑で、僕らはやっぱりその中でしか生きていけなくて、そしてそれは無視するにはとうとすぎる。

「ムリだろ」

「うん」
僕は素直に頷いた。そしてここに来て初めて泣きたくなった。
「ムリですね」
このひとは僕の一番云いたかったことを、このひとなりのやり方で掴んでくれているんだと思う。だからこそきっと、僕と同じ答えに行き着いたんだ。
それでもう、十分すぎるほどだと思った。くしゃりと、笑う。



銀さんは眉間に皺を作ったまま二度ほど瞬きをして、首をがくりと落として俯いた。
「気の迷いだよ、気の迷いだと思うんだけど」
聞き取りづらくて近づくと、さらに顎を引いて、歯切れ悪くぼそぼそと呟く。

「さっきおまえに、ちゅーしたいと思った」
おれ、目閉じてるから。そう云って銀さんは堅く目を瞑った。

このひとはどこまででたらめなんだろう。どこまでいとしいんだろう。


僕は歯を食いしばって、思い切り背伸びをした。景品の袋が胸元にぶつかって鳴る。
掠っただけの唇は柔らかくて、少しかさかさしていて、心なしか甘かった。
睫の端が湿っていくのを厭いながら、
僕は一生これを忘れないだろうと、そう思った。










モドル