逆説ヒロイズム
はっ、はっ、はっ、 荒い息をこめかみで聞く。 振り上げる。眉間に精神を集中させて、まっすぐな太刀筋をイメージする。 右足を思い切り踏み込み振り下ろす。 空気を切る音。もっと鋭く。もっと澄んだ音に。 もう一度。草履の下で小石がじゃりと鳴った。 汗が首の後ろで跳ねる感触が遠い。 自分の体が、地に着いた重たい存在を離れて、動きになっていく瞬間。 周りの音がどんどん聞こえなくなっていく。 心を集めろ。見極めろ。 振り切れ。 「少年」 遠かった音がだんだんと戻ってきて、僕はようやく自分が呼ばれたことに気づいた。 ぐるりと振り向く。 「何をしている」 聞き覚えのある声。 橋の袂から桂さんがこちらのほうに降りてくるのが見えた。 「あ、こんにちは」 妙なところで会う。僕は竹刀を下ろして挨拶した。 「なにもこんなところで稽古をしなくても」 確かお前の家には立派な道場があっただろう。あきれたように云われた。 「あはは、ちょっと事情が」 柳生のところで作った怪我を姉上はずいぶん心配した。まだ傷が癒えきっているわけではない今、道場を使おうとしたらきっと止められてしまうだろう。 それで目立たないように河川敷、橋の下の陰になったここを選んだ。 それにここは意外に落ち着く。少し薄暗いし、道場と違って足場が悪いのは却ってありがたい。 事実、実践になれば足場なんてあってないようなものだ。視界だって常に制限されている。僕は早く道場の剣術を卒業しなきゃならない。 桂さんはそうか、と腕を組んだ。 追求はしてこなかった。そこまで興味がないのかもしれない。 「何時からやってる」 「えっと、お昼ぐらいからです」 「もう四時だぞ」 「あ、そんなになりますか」 時計もなにも持ってこなかったからわからなかった。五時になったらタイムセールに行かなきゃならない。 「精が出るな」 「体力余っちゃって」 何もさえぎるもののない河原を、びゅうと風が駆け抜けていく。 汗が肌で乾いていくのが気持ちいい。あごを浮かせて目を細めていると、桂さんはゆっくりきびすを返した。 「邪魔したな」 そのまま行ってしまいそうになったから、僕はこのひとに云いたかったことがあったのを思い出して呼び止めた。 「あ、あの、桂さん」 「何だ」 「ずるいです」 せりふはよく整理できていないうちに飛び出してきてしまっていた。 桂さんは肩ごとでこちらに振り向いた。 「銀さんの背中、ずっとあんたのものだったでしょう」 あのひとの背中で闘うことがあんなに気持ちいいだなんて初めて知った。 セックスなんかよりよっぽど気持ちいい。 僕と彼の境がなくなって、強さが流れて漲ってくるような、 息を吸ったり吐いたりすることすら連動しているような、 ものも言えないほどの一体感。 桂さんはずるい。ずるいと思ったから、一言云ってやりたかった。 「あんなに気持ちいいの、あんた知ってたんだ」 桂さんはちょっとびっくりしたように眉を上げて、また下げて、のどで低く笑った。 「そうだな、知っていた。でもすぐに忘れてしまうんだ」 そばにいないとすぐに忘れてしまう。そんなことを云うから、 「じゃあなんでそばにいないんですか」 僕は純粋に不思議で尋ねた。 桂さんは口元を押さえて、少し考えたように沈黙して、それから思いついたように云った。 「俺はいつもあいつの味方じゃない」 「だからあいつと共には生きられない」 言葉を受け止めかねて瞬きをする僕に、桂さんは確かめるように訊いた。 「おまえはいつでもあいつの味方でいられるんだろう?」 僕は大きくうなずいた。 桂さんの言葉を、全部正しく汲み取れているかわからなかったけれど、それでも頷いた。僕はあのひとの味方でいる。この先どんなことがあったって、それだけは確かだ。 そしていつか。いつか銀さんにも。 パターン化されてしまった、陳腐な、安売りのそれじゃなく。 僕が銀さんに出会って憶えたような、腹の底から沸きあがるような高揚を、 銀さんにも感じて欲しいんだ。 僕は桂さんの目をまっすぐ見ていた。 桂さんはふと表情を緩ませて、僕の額を前髪ごとそっと撫でた。 「いい瞳だ」 ふうと、鼻先を一陣の風が通り抜けていく。 目を眇めて、また開いたら、桂さんはもうそこにはいなかった。 豆粒みたいな後姿が遠くに見える。 背中から身震いがする。 まだまだだ。僕はまだまだ、桂さんの足元にも及ばない。 もっともっと強くなりたい。 銀さんが一人で傷つかなくてもよくなるように、ひとりで背負っているたくさんのものを、ひとりで背負っているだなんて思わなくてもよくなるように、 僕は、強くなる。 |