いきもとまるほどつよくだいてよ
意識の外で、熱を持った点がとんとんと、おれの額をくすぐる。 覚束ない思考で、撫でられているのだと思い当たる。 気配は危険なものでこそなかったが、特別無害なものでもない。 身構えたくても何故か体に力が入らなかった。 誰だ、人の頭なで回してるのは。 思いついた、というか、意識のいちばん手前にある名前を呼んだ。 上手く発音出来ていたかわからないけれど、耳の後ろから唸った。 そうしたらしっかりした声が降ってきて、おれの体を震わせた。 こ−こ−に−い−ま−す−よ 言葉を捕らえて、意味をなぞった。 別にそんなこと頼んでねーよ。なんだその、なんかおれがお前を必要としてるような物言い。 そんなんでおれがありがたがるとでも思ってるのかよ。恩着せがましい。 そういうのが、正確にではないにせよ、不快が顔に出たのか、今度は宥めるような声が云った。 だ−い−じょ−う−ぶ 何が大丈夫なんだ。大丈夫なことなんか何にもあるもんか。 随分無責任なことばだと思った。子供だましみたいな気休めだと思ったけれど、それでも何故か体から力が抜けて、穏やかな気分になった。安堵と呼ぶのが一番近かった。 末端を温かい、湿ったものがそっと覆う。 薄目を空けて右手の方を伺ったら、俺の手が一回り小さい手に握られていた。 ふう、と感覚が遠くなる。夢と現の間をゆらゆらと漂う。 おれはバカのひとつ憶えみたいに名前を呼んだ。声になっていなかったかもしれないけれど何度も繰り返して、そうしていつの間にか気を失っていた。 「新八」 自分の声で目が覚めた。 声は口先で響いて空気に霧散した。 がばと跳ね起きる。体温はどこにもなかった。右手をたぐり寄せたけれど先にはなにもなかった。 布団の先は冷たい畳の感触で、部屋の端には几帳面に折りたたまれた布団が置いてあった。 そのぽつりと空いた場所の空疎がおれを圧倒して、後ろから殴られたみたいな錯覚に囚われた。 すう、と体から熱が引いていく。かわりに気色の悪い鳥肌が背筋を駆け上ってくる。 いるはずのものがそこにいないこと、この世にそれ以上に哀しいことなんかない。 夢じゃない。確かにあいつはここにいた。 だってさっきまでこの手を握っていた。 匂いだって、温度だって、手に取るように思い出せるのに、今はどこにもない。 新八がここにいない、それだけのことがおれを酷く打ちのめした。 「しんぱち、」 おれはひび割れた声を上げた。悲鳴のようだと思った。 厭な汗がじわりと沸き上がる。どくどくと膿んだように熱を持つ心臓は収まってくれない。 出し抜けに、廊下側の方でがたりと戸が鳴った。 体ごとで振り向くと、腕組みをした黒い人影が柱に寄りかかっている。 「…ヅ、」 「桂だ」 皆まで言わせずに遮る。それはもういい。 おれはからからの喉で聞いた。 「新八は」 「半時ほど前に出て行った」 昨晩お前を迎えにわざわざここまで来たんだぞ。礼を言っておけ。そう言われて、おれは初めて周りを確認した。考えてみれば見覚えのない部屋だ。 「ここ、ヅラんち?」 「ああ」 そういえば昨晩、ヅラの家で飲み直すとか云って移動した記憶が朧気ながらにある。 そんなことは別にどうでもいい。 とにかく今は、さっきまでここにいた新八がいないということ、その事実だけで頭がいっぱいだった。 「店、帰ったんかな」 「俺が知るはずもなかろう」 ヅラに呆れたように云われて、そりゃそうだと思った。このままじゃ埒があかない。 「おれ、帰る」 「ああ」 布団をのけて腰を持ち上げる。立ち上がったら宿酔いの頭が痛んだ。 早足でヅラの横を擦り抜けたあとで、泊めてくれた礼とか、ひとこともふたことも足りないなと思ったけれど、こいつ相手に言葉が足りないのなんて別に今に始まった事じゃない。 振り向きざまにちょっとだけ掠った視線に背中を押されて、おれは走り出した。 家を飛び出して、少し行くと見覚えのある大きい通りに出た。 人混みをかきわけ走る。おれはいつも人の流れに逆らうような歩き方はしない。こんなに大変なものなのかと思った。 万事屋までの歩き慣れた道のりがやたらと遠く感じる。酒が抜けきっていないのか足元がふらついて、何人もの人にぶつかった。舌打ちや罵声を浴びたが、構っていられない。 足を前に出すことだけに腐心して、転びそうになりながらも駆けた。 階段の手摺りを握って、鉛のように重い体を一段一段上げる。 やっとのことで見なれた扉を引いた。 玄関に神楽の靴は出ていなかったけれど、揃えた新八の草履が並んでいた。ここにいる。 勢い込んで引き戸を開ける。 「新八」 「新八」 名前を呼びながら、客間、八畳、ベランダ、戸を開けて回るけれど、どこにも新八の姿はなかった。 得体の知れない焦燥と、いいようのない心細さに襲われて、叫び出しそうになったとき、 「ここです」 斜め後ろで声がした。 玄関へ続く、開け放された戸のところに新八は立っていた。 風呂の掃除でもしていたのか、たすきがけをしていて、裸足だった。 ほっとしたら全身から力が抜けた。肩をがくりと落とす。 「…いた」 「いますけど」 きょとんとした顔をする新八は、おれの泣き出しそうな顔を見てふっと眉を寄せた。 距離を縮めることも忘れて立ち尽くす。 胸一杯に新八の匂いを嗅いだらわかってしまった。わかりたくなんかなかった。 そういうことだ。匂いを感じても萎えないとはそういうことだ。 いつかこいつがおれに刀を向けたとき、切って捨てられるか自信がない。 こいつがこの先どんな匂いになろうと、変わらずおれは体を明け渡してしまうだろう。 それは絶望に近い確信だった。 床を鳴らしながら近づく。一歩一歩がやたらと重い。 息もまともにできないまま新八を見た。 見つめ合っていられる自信がなくて抱き寄せる。新八は大人しく腕の中に収まった。 「名前、呼んでくれ」 「…銀さん」 「もっと」 「銀さん」 「もっと」 もっと呼んでくれ。おれが厭になるまで名前を呼んで、 名前をつけて、おれをここに、お前の傍に戻してくれ。 おれはがんじがらめになりたいんだ。 肩を掴んで引き剥がす。新八は衝撃に身を固くして、それでもきっと目線を上げておれを見た。 真正面から向き合って、双眸を覗き込む。茶色い虹彩がおれを映して揺れている。 頭の芯がじんじんする。おれは痛みを堪えて目を眇めた。 飛び出しそうな心臓と一緒に言葉を。大きく口を開く。 「なあ俺は」 たくさんの喪失。裏切り。距離。時間。時間。時間。 気の遠くなるほどの不安を抱えて、なお。 「お前を、信じていいのか」 信じさせてくれるのか。 新八は笑わなかった。にこりともしなかったけれどそのかわり、腕がおれの頭を引き寄せた。 潰れた声が、信じて、と云った。それは懇願だった。 こいつもおそらくおそろしいのだろうと思う。それくらい、おれたちの縋るものは頼りなく微かだ。 途方もない恐怖は今も変わらずおれを捕らえている。それでも、不思議と心臓は疼いていない。 おれを包む体温は子供のものでも大人のものでもなくて、 ただ熱く、熱く、おれを塞いでいた。 |