アンカインド






店に溢れる喧噪で、隣の椅子が引かれたのに数瞬気付かなかった。
億劫に顔を上げる。遅れて剣呑な、けれど嗅ぎ慣れた匂いがした。

「お前から呼び出すなんて珍しいな」
カウンター席に並んで座って、整った顔をした昔なじみは云った。
小汚い居酒屋。品のない団体客が狭い座敷にみっしり詰まっている。
テレビの野球中継の音とひっきりなしのおしゃべりがBGMだから、低い声で話をするにはもってこいの店だ。


おれの前には既に空になったグラスがみっつ。
ヅラはヅラで突き出しを持ってきた店員に一言二言声を掛けて、それから座り直して、おれの方をちらりと伺った。
おれはヅラが来るまで延々とあーでもないこーでもないと考えていた話をしようとしたけれど、大方が酒で飛ばされてしまっていた。鈍い思考で考える。そう、とにかく話の出だしは。

「オレの鼻、バカになっちゃったぽい」

ヅラは顔をこっちに向けて瞬いた。
後ろの団体客がイッキコールを始める。囃し声、拍手。まばらになった拍手の間で低く返事が返ってきた。
「そうか」

それで、とも、だから、とも云わない。続きを促さない。
この落ち着いた声は変わらずおれを放っておいてくれる。だからおれはいつでもこいつに戻ってこれる。随分こいつに助けられていると思う。


「どうしよ」
さっき考えていたその先が思い出せず、話もそこでどん詰まりで、おれは呆然と呟いた。
「考えても仕方あるまい」
店員からグラスを受け取ったヅラは、軽くあおって、素っ気なく云った。
そう云われてしまってはおれもコメントしようがない。
「ですよねェ」
間抜けな返答が口を衝いて出て、げっぷ混じりのため息が漏れる。

「命に関わるのか」
「いや」
別に、そういうことは。危険をかぎ分けられなくなっちまったわけじゃないし。
「じゃあ何が困るんだ」
突き出しを抓みながら、声はひょうひょうとしている。
俺は視線を落ち着かせる場所が見つからなくて、ヅラの箸使いのやけに綺麗な手元を睨んだ。
箸の先がひじきを器用に掬っていく、のを眺めていたら、急に脈絡なく、悔しさとか、情けなさとか、苦しさとか、そういうどうしようもないものが込み上げてきた。


「あいつのせいなんだ」
「あいつの、」

おれはおれをやめるつもりなんかなかったのに。
あいつがおれを、力ずくでこんなふうにした。


「怖いのか」
変わらない速度でひじきを掬う手にうながされて、なんだかやっと、一番云いたかった言葉が云える気がした。
おれは思い切り眉を顰めて喉を震わせた。
「怖ェよ」
吐き出したら本当に怖くなった。寒くもないのに頬にぴりぴり鳥肌みたいなのが走って、おれは口元をひきつらせた。


ひいきのチームが点を入れたのか、斜め後ろでどっと沸き上がる歓声。
怖い、その一言をいうのになんだか訳もなく疲れた。おれは憔悴して肩を落とした。
ふふ、とヅラが笑った。なんで笑うんだ。
「何がおかしい」
食ってかかる元気はなかったから、テーブルの上で拳だけ握りしめて唸った。

「恐怖を感じなくなったら終わりだ、と」
「いつか云ったのはお前だ」
銀時。呼ばれて、鼓動が跳ね上がった。
ヅラはおれの顔を覗き込むように、じっと見ていた。痛いほど視線を感じて、でもおれはとてもじゃないけど正面から向き合うことなんかできなかった。
みんな見透かされたような気になって、おれは奥歯を噛み締める。


「今お前が受け止めかねているもの、」

「それを取りこぼすのがそんなに怖いのか」

耳がキーンとする。騒々しい店内の音が一瞬遠ざかって、ヅラのせりふだけが頭の中でぐるぐる回った。


アルコールの匂いだけが鼻を衝いて抜けるようなコップの安酒を、おれは煽りたくても煽れずにグラスに指を立てた。ガラスが手の中で冷たくて同じだけ硬かった。
小刻みに震えているこの頼りない手はほんとにおれの手なんだろうか。





モドル