月の唄
何の気はなしに顔を上げたら、月がやたらと綺麗だった。厠の小さな窓にぽつりと浮かんだそれは、ガラス越しに猫の目みたいにまっすぐ僕を見ている。 重い瞬きをひとつして、顎を引く。 さっきまで胸に込み上げていた吐き気はどうにか遠ざかっていた。波は去ったようだ。 僕は抱えていた便器からようやく身体を離し、ペーパーで濡れた口元を拭った。 銀さんの部屋を襖越しに伺って、あまり品の良くない鼾が漏れているのを確認する。今日は起こしてしまわなかったようだ。 少しほっとして、自分の布団がある六畳の戸に手をかける。 ふと振り向くと母屋の方、低い空に月がいた。あまり眠くはない。少し月を見るのもいいと思い直して、開きかけた戸を後ろ手に閉めた。 縁側に腰を下ろす。動くのをやめると途端に冬の切るような空気が綿入れ越しにじわじわ肌を刺す。踝と足指を凍らす鋭利な感触が、却って僕を落ち着かせてくれた。 腕を組んで肩を竦める。目を閉じないようにしようと思う。 あのとき。 あのとき、僕を一瞬支配した殺気がなかなか僕の中から出て行ってくれない。 あんなに血が温かく匂うなんて、あんなに刀が重いなんて、僕の中にあんなにも誰かを傷つけるための悪意があったなんて、ちっとも知らなかった。 思い出すだけで身震いがする。まだ肚の中に熾き火のようなものが残っていて、僕を中から燃やし尽くしてしまうかのように止めどもなく震えと熱と嫌悪感を噴きだしている。 誰かに傷つけられることも誰かを傷つけることも厭わないと。彼の傍で彼と共に闘う事を決めた日から、覚悟なんかとうにできているつもりだった。 ここで闘い続けるのなら、侍として生きるのなら、いつかは来る日だった。むしろ遅すぎるくらいだったのかも知れない。 後悔なんかしていない。彼を護るためこの腕が震えずに刀を振り切ったことを僕は誇りにすら思う。 ただ、内から細胞が塗り変わるような急激な変化に身体が戸惑っているだけなんだ。 太股越しに廊下が軽く軋んだ。僕はぎょっとして振り返った。 「…神楽ちゃん」 どてらをきて肩を竦めて、こちらをぶすっと睨んでいる。 ここは離れだから、なんで彼女がこんなところにいるのかが純粋に疑問だった。 「どうしたの、母屋のトイレ塞がってたの」 「レディに失礼アルな」 そんな理由じゃないアル、すかぽんたん、と、死語に近い悪態をつきながら隣に腰を下ろす。 じゃあどんな理由なのか聞きたかったけれど、なんとなく想像がついてしまってバツが悪くて俯いた。唸るように神楽ちゃんが云う。 「いつまで引っ張る気アルか」 「…気付いてたんだ」 「目の下にクマが出来てるヨ、気付かないとでも思ったか、ダメガネ」 僕は目元に手をやった。吐いたりは離れでしてたから、姉上や神楽ちゃんには気付かれてないと、平気を装えていると思っていた。女の人はそういうところ鋭いのに、ごまかせてると思っていた僕もたいがいバカだな。 「初めて生身の人間斬ってビビってんダロ」 挑発するような神楽ちゃんの問いに、僕は素直に頷いた。 「…うん」 「戦場じゃ綺麗事なんか通じないアル、かかった火の粉は振り落とさなきゃならないヨ」 「…わかってる」 「こんなことでガタガタしてるようじゃ銀ちゃんに付いてなんて行けないネ」 「わかってる」 僕が挑発に乗ってこないのに拍子抜けしたのか、神楽ちゃんは背中を反らして足を前でぶらぶらしはじめた。 「だからメガネはメガネアルな」 はー、とわざとらしく息を吐いてみせるけれど、ほんとは気を遣っていてくれてるのはよくわかった。 そうじゃなきゃこんな夜中にわざわざ僕の部屋を覗きに来たりしないだろう。 この女の子は口で言うよりずっと心根の優しい子だ。 僕らは暫く無言で空を眺めていた。車の音が時折塀の向こうを行き過ぎる。 「でもネ、パピィが言ってた」 今度は少し低い声で、神楽ちゃんがぽつりと云った。 「強くなる事は、あらゆることに鈍くなる事なんだって」 「だから」 「オマエはそれでいい」 横顔はまっすぐ前を睨んでいた。強い瞳だったけれどどこか寂しいと思った。 僕は言葉を噛み締めながら、自分のために、それから彼女のために頷いた。 「…ありがとう」 出した声が掠れていなくてほっとした。傍にいてくれてありがとう。言葉をくれてありがとう。僕に傷付いてくれてありがとう。 百万遍でもありがとうと云いたい、その気持ちが少しでも伝わっていたらいいと思った。 |