そりゃないぜ'99
浮遊した意識がふわふわした白いものをかぎ当てる。 甘くはない、でも温かい。懐かしいけれどつい最近どこかで嗅いだような、 おれは知っている。 これはあいつの匂いだ。あいつ。あいつの、 そこまで考えたら出し抜けに意識が地べたに引き戻された。 腹の下、くたびれた木綿の感触越しに畳がみしりと鳴る。おれの布団、いつもの朝だ。 それでもからだじゅうにへばりつく違和感を覚えて、薄目を開けて硬い首をぎしぎし回した。この部屋は雨戸を閉めているから薄暗いけれど、外の様子から朝、それもだいぶ日が高くなっているようだ。襖、半分開いてる。少しずつ視界が広がっていって、情報が増えていく。 違和感は主におれの体から来ているようだった。二日酔いでみしみし痛む頭と吐き気と、それからなんでか下半身が怠くて、でもすっきりしたかんじもあって、こんな感触憶えがない。 まだもやもやした頭で整理しようとしていると、鼻に味噌汁の匂いが飛びこんできて、ああ新八か、と思って、そこで背筋が凍ったようになって伸びた。 立ち上がろうとして首だけで起きたけれど、当たり前だけど上手くいかなくて、這うようにして襖のところまで匍匐で行った。 襖をガタガタやって、居間に首だけ出して台所の方を仰いだら、 「やっと起きたんですか」 新八は見なれない顔でこちらを向いた。 見なれないと思ったのは口元だけで笑っていたからで、眉は力無く寄せられていて、それは今までみせたことのない、子供らしからぬ複雑な表情だった。 それから袴を穿いていなかった。珍しく着流しだった。 「お前、袴」 云いだしてから初めて自分が握りしめているごわごわした感触に気付いた。 「銀さんが離してくれなかったんで」 指さされて、ぎょっとして腹の下でおれの着物に巻き込まれてひどいことになっている布を目の高さまで持ちあげた。 いっそなんにも記憶がなければよかった。覚えていないとシラを切り通せたかも知れない。けれど体の底からふつふつと蘇る、断片的な、やたらと鮮明な感触がおれを追いつめる。 下半身のだるさも相まって言い逃れはきかない。まず間違いない。 とんとんとこちらに近づく足音。 「ノリつけたばっかだったのに、あーあ、ぐしゃぐしゃだ」 呆れたような声に、おれはごくりと喉を鳴らした。 思い切って新八を見上げる。 「新八、」 「なんですか」 「いいからこっちこい」 傍に来た新八の腕を取って座り込ませて、襟元に残る赤い斑点を確認して、留めを刺されておれはがくりと項垂れた。頭痛が更に酷くなる。 とにかくできることなら元に戻したい。 一番の違和感をどうにかしようと、おれはぎこちなく座り直して、新八を立たせて、袴を穿かせた。それから襟をぐいと閉じる。 ぱんぱんと腿を叩いて、うん、元通り、とやったけれど上手く笑えなかった。 戻らない。当たり前だけれどなんにも戻らない。 新八はもう一度ぺたんと向かいに腰を下ろして、口を結ぶ。おれは黙っていられなくなって、云う事も決めずにとりあえずがらがらの声を出した。 「、きのう」 「いっとくけど、銀さんですからね、やりたいって云い出したの」 そうしたら、おれのせりふに被せるように新八が早口で云った。 おれは口をぱくぱく動かして、それでも新八から目を逸らせなかった。逸らしていいのかわからなかった。新八も頼りなく頬を歪めてみせた。 謝ればいいんだか開き直ればいいんだか全くもってわからない。 おれが二の句を告げないでいると、今度は伺うようにぼそりと漏らした。 「言い訳、しないんですか」 言い訳をして戻れるものならば何度だってする。でも戻れないのだから仕方ない。 わんわん響いて思考能力が極限まで落ちた頭でそう思った。 そう思ったら言葉が考え無しに飛び出していた。 「ウソにするのもホントにするのも」 こうなったらもう。 「どっちだっていいぜ、おれは」 おれが避けたかった事態、というのがそもそもどんなものだったかもよくわからなくなってきていた。 もう頑張らなくていいような気分にもなった。第一どんなことについて頑張っていたのかもごちゃごちゃになってわからない。 「…云ってる事がよくわかんないんですけど」 新八はちょっと唸って首を傾げた。 「もういっぺんしたいってことですか?」 「ば、」 なんだそりゃ、と噛みつこうとしたら新八はばっと顔を上げた。上気した頬はりんごみたいになっていた。 「僕なら」 睨み付けるような視線には欲が潜んでいる。 「したいですけど」 唇を舐めた舌の赤さにうちのめされて、おれは引き込まれるみたいにゆっくり新八に覆い被さった。 平らかな胸やペニスを素面で直視したら多分萎えると思ったから、押し倒しといてそれも情けないと思ったから、襖を閉めて視界を暗くする。 けれど心配する事もなくて、粘膜の滑りや汗や、頬のすぐ先で伏せられる睫だとか漏れる息だとかそういうようなものですぐに五感は埋め尽くされてしまった。体中が、頭の中まで血管になったみたいにどくりどくりと疼いてたまらない。 おれのかたちに開く粘膜は、軟膏を使ってもなおひきつって悲鳴をあげる。 新八の中は熱く、きつく、痛い、に限りなく近い。堅い。当たり前だ、こいつのからだはこんなものを受け入れるように作られていないんだから。 ぎしぎし鳴る骨と筋肉を思って、新八の顎で噛み締められる歯並びを思って、おれは急に泣きたくなったけれど今更動きは止められなかった。 鼻を啜ったら眉間の辺りで大袈裟に鳴ってつんと沁みた。 見やれば新八の眦にも涙がにじんでいた。チクショウと小さく声が漏れた。だからおれも堪えきれなくなって、息を吸い込んだら簡単にぼろりとなって、水滴で視界が歪んだ。 歯を食いしばりあうおれたちにはとてもキスなんて出来ない。チクショウ、と繰り返す新八の唇を、おれは塞ぐ事が出来なかった。そのかわり耳朶に鼻先を押しつけた。涙はそこを伝って布団にぱたぱた落ちた。 この匂いがいけない。 こいつが、日向と雑草と埃と汗と石鹸と味噌汁の匂いばかりをさせるからいけないんだと思う。 この匂いがおれの警戒を根こそぎ解いてしまうからいけないんだと思う。 だっておれのどこをひっくりかえしたって、他にこいつじゃなきゃいけない理由なんかみつからない。 |