カルキ99%







このところ銀さんの帰りがあからさまに遅くなった。
何がしたいんだかさっぱりわからない、あの天パ。


神楽ちゃんをひとり残して帰るのも気が引けて、
バカバカしいと思いながらも僕はこうして帰りを待っている。
和室の柱時計が三度鳴った。この町は眠らないから、河岸を変えようと思えば一晩中がんばれる。今日も朝まで帰らないつもりかな。
別に待っててやる義理もない。そう考えたら急に自分があほくさく思えたから、このお茶を飲んだら寝ようと思った。

読み飽きた週刊誌をテーブルに放り投げると、玄関でがらがら音がした。



玄関の電球をぱちりと付けたけれど、壁に寄りかかった銀さんはうつむいたままだ。
「おかえんなさい」
僕の声に、ひっく、と肩が持ち上がって、
ただいまぁ、と惰性と思われる返事が返ってきた。
「ほら、しっかりしてください」
手の甲ではたくと、首をぐるりとまわして、そこで初めて気付いたかのように
新八ィ、と僕を呼んだ。
「オマエ、まだ、帰ってなかったの」
「いちゃわるいですか」
朝来てまず玄関でぶったおれてるこのひとを介抱するのも、
介抱してから寝るのも、手間にさして変わりはない。

起こそうとして胸元に肩を入れたら、香水とお化粧の匂いが鼻を衝く。僕は半分呆れて云った。
「今日はキャバクラですか。よく金続きますね」
僕は酔っ払いの身体をどうにか居間に続く戸までひきずったけれど、本人の協力なしにはそこまでひっぱるのがやっとだった。
戸に背中をもたれさせると、すぐにひざが崩れてすわりこむ。

そこまできて、はっとしたように顎をちょっと持ち上げて、銀さんは首をひねった。
「やかねーのオマエ」
「何を?」
何を云い始めるんだろう、このひとは。
「焼きもち」
「誰に?」
単純に文脈が追えなくて聞き返す。

銀さんはゲップ交じりの間抜けなため息をついて、
「ほらさァ」
勝ち誇ったみたいに、よれよれの手で僕を指差した。
「そういうのが本気じゃねーっていうの」
「はぁ?」
カチンと来たけれど、言い分をちゃんと聞いてやろうと次の言葉を待った。
銀さんは顎を引いて、頭が悪そうに語尾を延ばす。
「俺のこと好きならァ、俺がキャバ行ったり他のヤツとそーいうことすんの、嫌がらなきゃおかしいだろォ」
「そういうことって」
「そりゃ…アレ、合併したりなんだり」

僕はちょっと考えたけれど、その論理はよくわからなかった。
銀さんは僕が、女の子みたいに銀さんを好きだと思ってるんだろうか?

僕は男だし、女になりたいわけでもない。
女の代わりにされるのは厭だ。求められて安心したいわけじゃない。
そういう気持ちは理解できないし、そんなのはごめんだと思う。


「水、おみず」
今度はげほげほやりはじめたから、僕はあわてて水を汲んできた。
コップを手渡すとひといきで飲み干して、いい加減に口元をぬぐって、コップをつっかえしてくる。
カルキの微かな臭いが鼻につんと抜けた。

僕は銀さんの前にしゃがんでそれを受け取って、憮然として云った。
「レンアイってそういうのばっかじゃないでしょう」
男女の恋愛はどうだか知らないけれど、僕らは男同士なんだから違うのは当たり前だと思う。
「でもそういうの抜いたらレンアイじゃねーじゃん」
「そんなもんですかね」
「だからオマエは子供だってゆってんの」
バカにしたような物言いにムっとする。でもここで怒ったら負けだと思った。このひとのこの手にひっかかっちゃいけない。
「セックスしたくないならレンアイじゃねーよ」
「したくない、ってこたないですけど」
考えてみたことがないわけじゃない。ぶっちゃけると銀さんでオナニーしたこともある。ただそれはこのひとに対する第一義的な欲望じゃなかったし、大きなパーセンテージを占めるところでもない。

「オレオマエじゃたたないよ、悪いけど」
きっと。たぶん。うんムリ。何を想像したのか、顎に手を当てて頷いている。失礼な。
「僕が掘るんでもいいっスよ」
あながち冗談でもない。
真顔でそう云ったら、銀さんは心底厭そうに、うへー、と声を漏らした。


このひとが誰を向いている、とかそういうのはどうでもいいのかもしれない。
肉体的にも精神的にも、このひとはたぶん誰にも独占なんかできない。
僕のことしか見ない銀さんなんてキモチワルイし、そんなのは銀さんじゃないと思う。
僕はそんなこと望んでない。
銀さんには銀さんのままでいてほしい。僕が好きになった銀さんのまま、変わらないでいてほしい。

そんな内容のことを、短い言葉で、パズルのピースを撒くみたいにしゃべった。
銀さんはそのあいだじゅう眉間を寄せていた。
「オマエ甘いよ、やっぱりガキだよ」
それから吐き出すように云った。
「綺麗事ばっかいってんじゃねーぞ」
おかしなことを云う。このひとはその綺麗事が捨てられないまま大人になったひとだと信じていたのに。

じっと視線を向けたら、銀さんはやけっぱちみたいに首を振った。
「とにかくそんなん恋じゃねーよ」
「ああもう、なんでもいいですよ」
なんでもいい。タテマエとか保証とか根拠とか真実とか、
そんなの僕には必要ない。


白熱灯の灯りに目がしぱしぱしだしたから、廊下に視線を逃すと、
気付けば少し明るくなっていて、朝焼けが便所の窓から迫ってきていた。
銀さんは長く、ため息を吐くみたいに呻いた。
「だって宙ぶらりんじゃん。俺もオマエもさ」

「それでいいの?」
僕は頷いた。銀さんからは逆光に見えるだろうから、少し大袈裟なくらいに頷いた。

何を言ってるんだろう、このひとは。
そんなこと聞かなくたってわかるだろう。

「頑固だねオマエも」
嘆息して、僕から顔を逸らすように、反対向きにごろんと横たわる。
あーも、銀さん知らない。知らないもんね。
とぼけた口調がそういった。上等だよ、と思った。




やってくる沈黙に、あくびを噛み殺して、僕ももう寝ようと思った。
戸を引っ張ったら斜め下方で、
丸まった背中が眠そうな声で呟いた。

「どーしたら俺のこと嫌いになるのよ」



自分ののどぼとけが上下するのが判った。
唾液は呑み込みきれずにえらで渦巻く。苦い。

悔しい。
ほんとに僕はバカだと思う。

こんなひとのことで苦しいのはもうやめにしたい。



「こっちが聞きてーよ」


銀さんは向こうを向いたまま転がっていた。寝たふりなのかほんとに寝てしまったのかはわからない、僕にはそんなことすらわからなかった。







モドル