わたしたちは春のなかで
カレンダーを捲る。はしっこのほうは上手く切れなくってみっともなく残った。俺は幾つになってもこのカレンダーというやつが上手くめくれない。 目の端だけで数字の1と先負の字をなぞって、幸先わりぃなぁとかそんなことを考えた。 振り返ると定位置に座った新八が雑誌を繰っていた。いつの間にかトイレから帰ってきたらしい。 不意に、手元の雑誌のタイトルが目に飛びこんできて心臓が跳ね上がる。どくりどくりと、鼓動をいなすけれどうるさく鳴る。 別に驚くような事じゃない。鎮まれ。 新八が顔を上げると反射的に唇が開いた。 「バイト捜すのか」 口に出して云ったらほんとに大したことじゃなかった。新八は鼻で笑った。 「僕もさ来年からは年金収めないとならないし。そうひよってもいられないですよ」 再来年。頭の中で引き算をするのにやたらと時間が掛かった。そうか今年でこいつは19になるのか。 心持ち広くなった肩幅とひょろりと伸びた手足を見やる。出逢った頃は子供子供していたっけ。そのころのこいつを思い出そうとしたけれど上手くいかなかった。 この季節は心臓に悪い。 萌える。芽吹く。抑えようのない力でものごとが動き出そうとするから、その力の前に俺はひとたまりもないって事を見せつけられるばかりだから。そんなこと判ってると、判った振りをして踏ん張る俺を嘲笑うように鼻先を掠めるから、俺は春が嫌いだ。 俺はもう何年も怯えている。 「なんて顔してんですか」 今にも溜息を吐きそうな声に背筋が伸びた。そんなに情けない顔をしていたつもりはない。動揺なんて少しも表に出さなかった筈だ。長い付き合いでこんなことまで見破られるようになっているのか。戦く。 「別に万事屋やめるっていうわけじゃないんですから」 宥めるようないい方が気にくわない。気にくわなくて吐き出した。 「別にいいんだぜやめたって」 このままここにいたら確かに税金は払えないし、とてもじゃないけど家庭なんか持てない。俺とこいつの間に縛りなんてなにもないから、止めるなと云える権利なんか俺にはない。 そしてそれが唯一、俺がこいつにできる親切だと思った。 まだそんなことを云ってるんですかあんたは。声は怒ったようになった。 「僕はきっとこの先色んな人と出逢うだろうし、あんた以外のひととセックスしたりドキドキしたり恋をしたりするだろうけど、でも」 それから息を吸い込んだ。俺を見据える目は射るようだった。 「みんなくれてやると思うのはあんたが最初で最後です」 発音しきった新八はしてやったとでも言いたげな顔をしている。 でもこいつが差し出すものは俺の欲しいものじゃない。それが無性に哀しかった。 俺が求めているものとこいつの与えようとしているものが噛み合う事なんてこの先もないんだと思ったら泣きたくなった。 張りつめた緊張感に背中を押されるように俺は竦んだ足を前に出した。 ソファに膝を立てる。距離が詰まる。新八が目を閉じて顎を浮かせた。 手が磁石に引き寄せられるように首筋をつかんだ。 首筋は青年のそれというにはまだ頼りなく、すぐにも捻れそうだった。 こんな首を俺は何度か絞めた事がある。内通したかつての仲間だった。仲間とはいえ当時はみんなこれくらいの年齢だった。親を殺されて泣きじゃくる子供を生かしておくのは可哀想だと云って締めたこともある。あれはけれど今俺が新八の首を絞めるのよりははるかにまともな理由だった。今俺がこいつを殺すならば理由なんかどこにもない。 そうだ心中する時はあの世ではぐれないように小指だか親指だかを括らないとならないんだっけ。 でも小指だか親指だかを括って土左衛門宜しく水面に浮いているオトコの俺達二人を想像したらぞっとしないなと思った。神楽やお妙やババアは何て云うだろう。あんまりにも滑稽だ。 促すようでも咎めるようでもない、声が云った。 「僕なら怖くありません」 喉仏が親指の下、びりびりと震える。 怖い事なんかなにもない。そう云った新八の声はいつかとちっとも変わっていなかった。全てが時間に圧し流されていくというびくともしない現実が、自分に何百ぺんも言い聞かせた真実が、それだけで吹き飛んでしまいそうになる。喉に置いた手が笑ってすべり落ちた。あとには赤い鬱血が残る。 「何度だって云ってやる」 息を吸い込む新八の顔をこれ以上まともに見ていられなくて、俺は右腕で目の前の身体を抱きしめた。着物を通して温かさが伝わらないうちに吐き出してしまわなければと思った。早く。 「俺は、…俺は、」 けれど言葉は続かなかった。低い唸りにしかならなかった。 俺はずっと、好きだとか愛してるとか云えばそれで何らかのカタは着くと、俺たちに何か名前が付けられると思っていた。そんなような言葉が喉の辺りまで来ていて、それを押し出したら俺たちはなにものかになれると、ずっとそう思っていたのに。 それなのに言葉は喉のところでぱさぱさしたものになってしまった。砂を噛んでるみたいな気分だ。 そんな安っぽい言葉は今更何の足しにもならなかった。 それなら俺はいよいよどうしたらいいかわからない。 「…銀さん?」 訝しげな声に胸が押し潰されそうになる。やっとのことで俺は呻いた。 「行くな」 声は俺の口先で、頼りなく飛び散って消えた。 それはあんまりにも抽象的だった。そして物理的な意味でも精神的な意味でも土台無理な注文だった。 新八も判っているのか気休めは云わなかった。 ここでこいつがどこにもいきませんよとかそんなような事を云ったら俺はこいつを嫌いになれたかもしれないのに。こいつはいつだって俺を楽にしてくれない。 俺の腕をつるりとした冷たいものが撫でる。手は肘の辺りを捕らえて握った。 新八の指は俺の肌に粟を立てて、限りなく同じ体温になるまでそこで辛抱強く待った。 俺は俺をも繋ぎ止められない。 腕を握る新八の力は強くて、こうしていたらその強さが俺にまで流れ込んでくるような錯覚がする。俺は錯覚を振りきれない。 若いから。若いからこいつは判っていない。自分がどんなにうぬぼれているか、どんなに世の中をナメているか、どんなに残酷な事を俺に云っているか。 でもその自惚れや甘さや残酷さにいつまでも騙されていたいと、確かに俺は願っているんだ。 さっき捲ったカレンダーの数字を思い出す。そうだ今日は四月馬鹿だから明日になったらこれも全部嘘にできる。そんなことにまだ縋り付こうとしている自分に可笑しくなった。あまりに必死だと思った。 握られたところが軽く痺れてくる。手の力はちっとも緩まない。ただその強情さに救われたような気分になって、俺はきつくきつく目を瞑った。 |