ロングロング・グッドバイ(後)
暗闇の中でぱちりと眼が輝いた。 「銀さんがそう言うなら」 あまり間髪を置かずに声が返ってきた。表情が読めない。 俺は目をこらしたけれど、闇に阻まれてすぐ鼻先にあるはずの新八がどんな顔をしてるか判らなかった。目は俺を見据えている。もういちど瞬いた。 「癪だけど僕はあんたの生き様に惚れてここまでついてきたんだから、 あんたがここでさよならしたいっていうのなら僕に異存はありませんよ」 一息で言われたので、俺は反芻して噛み砕くのに暫くかかった。こいつはさよならしようと云う俺に仕方ないと云うんだ。声は自棄になっているようでもなかった。それがやけに引っかかった。 引っかかったというのは適当じゃない。苛々した、が正しい。 こいつも神楽みたいに喚けばいいのに。厭だって、何を云ってるんだって俺を罵ればいいのに。 なんで声を荒げもしないんだ。熱が集まったようなこめかみでそんなことを思った。 喚いたらどうだっていうんだ。こいつが喚いたら俺はどこにもいかないと気休めを言うのか? 違う。そういうのじゃない。 喉がカラカラだ。唾を飲もうと思うのに口の中まで熱を持って乾いていた。 新八は俺の言葉を待たずに寝返りを打った。肩幅は子供のものだったけれど、想像していたよりも薄くはなかった。俺はこいつに傷付いて欲しいんだ。二度と消えないような痕を残したいんだ。 ああこんなことに気付きたくなんてなかったのに。 俺達はもっと、お互いを追いつめたりしない、都合の良くないところには目を瞑るような間柄だと思っていた。だからずっと名前を付けなかった。傷の舐めあいと何にも変わらないと思った。 年嵩も力も潜った修羅場の数も髪の色もまるで違うのだからそんな生き物と恋愛だなんて出来るはずがないだろう。 肩の向こうで新八は云った。 「あんたのことなんてすぐに忘れてやります」 思い出してもやらない。声はだんだん苛立ったように揺れた。 そう、どんなに近くにいたって時間と距離の前にはひとたまりもない。 俺も新八もお互いのことなんてすぐに忘れて記憶の中で相手を殺してしまうんだ。 俺はそれを望んでいたはずなのに、それなのになんで。なんでこんなにぐらぐらするんだ。 だってこれは綺麗じゃない。 こんなに厭などろどろしたものが恋でなんてあるわけない。 口の中に苦さが充満してくる。厭だ。 くぐもったまま声は云った。 「僕に何て云って欲しいんですか」 俺は答えられなかった。実際わからなかった。 俺がこいつに何を望んでて、俺達に何を望んでるのかさっぱりわからなかった。 だから返事が出来なかった。 ほんの数秒の沈黙に押し潰されそうになって唇を割る。 呻きに似たそれが俺の口から漏れるのと同時に、新八が上体を起こした。 布団を捲って裾を捌いて、さっさと立ち上がるとトイレ、と云った。 俺は闇に慣れた目で新八がいなくなった布団の凹みを確かめて、それが生暖かいのに、一瞬目を開けていられないほどの眩暈を感じた。それは喪失感に一番似ていた。 畳に軋む足音は襖のところで止まって、襖が開く音がしないのに顎を上げる。俺が顎を上げるのを待っていたように新八は吐き出した。 「僕はあんたなんかのために一滴も泣いてやりませんから」 語尾は割れていた。襖がガタガタ開いてまたガタガタ閉じた。 居間の戸が開く音と、さらにその先の、トイレではなく玄関の戸が開く音が聞こえて、それから何も聞こえなくなった。耳にこだまするようなわざとらしい静寂。その下から秒針の音がカチコチ聞こえ始めた。 俺はちっとも哀しくなんかなかったけれど、鼻梁を駆け上がる熱をそのままにした。目頭が火照って睫に暖かいものが溜まる。目尻を枕に寄せて、間もなく枕の生地に吸い込まれる涙を想像した。 階段を下りる音は聞こえなかったから、新八も玄関の戸の向こうで泣いているんだろうとぼんやり思った。俺の前で泣けないあいつも、あんたなんかと云われた俺も可哀想だと思った。 何より三枚扉を隔てて声を殺しあう俺達はバカみたいだ。でもこの距離は確かに俺達の間に存在して、その距離は今の俺達には必要な物だと思われた。 朝はいつもと同じに来た。 だから俺達も、泣きはらした目でいつもと同じに振る舞った。 ひでぇ顔、と云ったら鏡見ろバーカ、と云われた。 店を畳むとか、そういう話はなかったことになってた。俺にも新八にも蒸し返す気はなかった。 三日経つと神楽から電話が掛かってきた。親父さんは持ち直して容態も快方に向かっているという内容だった。金が貯まったらすぐにも戻ると云った、電話の声は拍子抜けするくらい明るかった。 俺達は顔を見合わせて苦く笑った。 「あれですかね。神楽ちゃんの乗ってるの」 雲の横にぽつんと浮かぶ銀色の点を指して云う。 「違くねぇ?到着予定時刻までまだ30分もあるぜ」 ターミナルの屋上は風が強い。早めに着いた俺達は暇つぶしにここに来ている。 周りに人影はない。ふたりぼっちになったみたいな錯覚がする。 でも俺は前ほどこいつと二人きりになるのが怖くなくなった。 俺は腐っても大人で、新八は腐っても子供だ。 だから俺には暴き合う覚悟がない。新八には卑怯になりきる覚悟がない。 それさえあれば俺達はどうにかなれるかもしれないのだけれど。 それでもまだ今は、ぬるま湯みたいな日常に身をゆだねていたい。後悔はさよならの後でしたいだけすればいい。その後で今の俺を詰ればいい。 我ながら無責任だと思いつつ嗤う。でも悪い気分じゃなかった。 「そろそろ到着ゲートに行きましょうよ」 声を掛けられて振り返る。新八は走り出していた。 空と銀色の建物と翻った新八の袴の裾が一枚の絵みたいになって網膜に飛びこんできて、 最期に思い出す景色はこんなふうかもしれない、そんな予感がした。 |